投稿者アーカイブ:岡本全勝

手帳の使い方

2021年10月5日   岡本全勝

9月28日の日経新聞夕刊「ビズワザ」は「仕事に役立つ手帳選び」でした。パソコンやスマートフォンで、日程を管理する人も増えています。他方で、手書きの手帳派も根強いそうです。日程管理だけでなく、頭の整理や日々の記録に活用するためだそうです。活用法は、この記事を読んでください。

私は、大まかな行動予定は、電子メールで秘書やキョーコさんに毎週伝えます。変更があった場合に加筆が簡単で、そして共有するのが簡単です。
他方で、日程管理は、手帳でやっています。これは、長年の習慣です。スマホでもできるのでしょうが(私はスマホを持たないのでだめですが)。手書きで書き込むことで覚える、1週間が一覧で見ることができるなどが、私に合っています。

そして、手帳派の多くの人と同様に、何をしたかの記録も書き込んでいます。「手帳は予定を書くもので、日記は過去を記すもの」とは、加藤秀俊先生の言葉です。
私は日記帳を持たないので、手帳が日記代わりです。書斎には、結構昔のものから残っています。今後、見ることはないのでしょうが。このホームページも記録なのですが、何をしたかは詳しくは書いていません。人様に見せるのは恥ずかしいこともあるので。

もう一つ、しなければならないことの計画管理は、1枚の罫紙に書き出します。仕事関係、講演会の予定、執筆の予定、その他の雑件です。これを毎週のように書き換え、何をしなければならないか、どれを優先するかを考えます。日程管理と業務管理は別物だと、『明るい公務員講座』にも書きました。
この作業は手で書くことで、仕事の優先順位、それぞれの仕事の進め方、かかるであろう時間を考えることにつながります。どこで、執筆の時間を確保するかもです。これが、手帳や日程管理表ではできないのです。

メルケル首相評伝

2021年10月4日   岡本全勝

マリオン・ ヴァン・ランテルゲム著『アンゲラ・メルケル: 東ドイツの物理学者がヨーロッパの母になるまで』(2021年、東京書籍)を読みました。フランス人ジャーナリストによる、メルケル首相の評伝です。フランス人から見たメルケル首相、その生い立ちから、政治家としての経歴をたどります。

当時の東ドイツは、社会主義という名の下の独裁国家、市民が秘密警察の手下となり、お互いに密告し合う社会です。しかも、危険視される宗教の牧師の娘として成長します。それが、彼女のよく考えてからものを言う性格をつくります。
頭のよい科学者だった女性が、東ドイツ崩壊に遭遇し、政党で働くことを選びます。そこからは、あれよあれよという間に、出世街道を駆け上り、野党党首、そして首相へ、さらに4期16年という長期政権を維持します。国民支持率は、50%を切ったことがないそうです。

冷戦終結、ドイツ統一という「時」もありました。東ドイツ出身で女性を求めていたコール首相の目にかなったという「地」もありました。しかし、それだけでは首相にはなれません。西ドイツの男社会であるCDU(ドイツキリスト教民主同盟)の中で、権力をつかんでいくのですから。この本では、育ての親のコール首相を葬ることをしたことを、説明しています。コール党首時代のCDUに醜聞が出たときに、新聞に意見を公表することによってです。

翻訳も良く、わかりやすい内容です。ただし、分量が少ないこともあり、彼女の政治の手法や政策の評価については、あまり書かれていません。ドイツ(西ドイツ)の首相は比較的在任期間が長いのですが、16年間も維持するにはそれだけの理由が必要です。これは、別の本を読まなければならないのでしょう。
私が若いときに読んだ世界のリーダーは、チャーチル、ルーズベルト、ドゴール、ケネディたちでした。その次は、ジスカールデスタン、シュミットでしょうか。近年だと、サッチャー、ゴルバチョフ、ブレア、そしてメルケルでしょう。

世論による政治の危うさ

2021年10月4日   岡本全勝

9月25日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思・京都大学名誉教授の「国民主権の危うさ」から。原文をお読みください。

・・・私は、「民主主義の根本原理は国民主権にあり」というこの疑い得ない命題に対して、ずっとある疑いの念を持ってきた。いやもう少し正確に述べれば、この根本原則の解釈の仕方についてである・・・
・・・端的にいえば、世論は、安定した常識に支えられた「パブリック・オピニオン」であることはまれで、しばしば、その時々の情緒や社会の雰囲気(つまり「空気」)に左右される「マス・センティメント」へと流されるのである。そして、この不安定な「世論」が国民の意志つまり「民意」とみなされ、その結果、民主主義は世論による政治ということになる。
議院内閣制とは、まさにこの意味での国民主権の民主主義を部分的に抑制しようとするものであった。たとえば、英国人にとって英国の政治体制は何かと問えば、主権者は王であり、政治体制は議会主義だと答えるであろう。議会での討論こそが決定的な意味をもっており、民主主義はせいぜい選挙制度のうちに組み込まれている・・・

・・・では「国民主権としての民主主義」とは異なった民主主義の理解はありえないのだろうか。ありうる。というより、実にシンプルなもので、それはあくまで政治的意思決定のプロセスとして民主主義を理解することだ。「手続きとしての民主主義」である。論議を尽くしたうえでの投票による意思決定という手続きである。
そしてある程度有意味な議論が可能となるためには、限定された代表者による集会が不可欠になろう。これが議会主義であり、代表者を選ぶのが普通選挙であって、この手続き全体の妥当性が民主主義と呼ばれるものなのである。
議会主義にせよ、議院内閣制にせよ、こういう発想に基づくものであった。したがって、議院内閣制は、あくまで、民意や世論という「主権」からは距離をとるものであり、そこにこそ、「手続きとしての民主主義」の意味がある。

デモクラシー、つまり「民衆(デモス)の支配(クラティア)」は日本では「民主主義」と訳され、「主義」としての思想的な意義を与えられてきた。それは、ひとつの理念であり理想を実現する運動であった。この運動の目指すところは「民意の実現」にあった。だから、政治がうまくいかないのは、政治が民意を無視しているからだ、ということになる。いいかえれば、民意を実現しさえすれば政治はうまくゆく、という。こういう理解がいつのまにか定着してしまった。
私にはとてもそうだとは思えない。今日の政治の混迷は、将来へ向けた日本の方向がまったく見えないからである。将来像についてのある程度の共通了解が国民の間にあればよいが、それがまったく失われている。しかもそれは、どうやら日本だけのことではない。グローバリズム、経済成長主義、覇権安定による国際秩序、経済と環境の両立、リベラルな正義などといった従来の価値観や方法が、世界中でもはや信頼を失っている。

むろんそんな大問題について「民意」がそれなりの答えを出せるはずもない。だから目先の、被害者や加害者が分かりやすい、しかも「民意」がすぐに反応しやすい論点へと政治は流されてゆく。
福沢流にいえば、将来を見渡せる大きな文明論が必要なのであり、それを行うのは学者、すなわちジャーナリズムも含めた知識人層の課題であろう。福沢は、この知識人層が大衆世論(社会の空気)に迎合していることを強く難じた。知識人層は、民意の動きを読み、同調するのではなく、逆にそれに抗しつつ、それを動かしてゆくものだ、というのである。150年前の福沢の主張は、今日ますます新たな意味を持っているのではなかろうか・・・

紙で読む良さ

2021年10月3日   岡本全勝

9月25日の読売新聞夕刊「紙で読む良さがある」から。
・・・ニュースや小説、書類を紙で読むか、デジタルで読むか、いつも悩ましい。そもそも、デジタルに比べて紙の方が優れている点って何だろう。読み書きメディアとしての紙とデジタルを比較研究する群馬大の柴田博仁教授に聞くと、それは「操作性」だという・・・

実験A
間違い探し。参加者は20〜30代の24人だ。同じB5サイズの紙とタブレット(iPad)で、1ページ分の文章から、文脈上おかしい点(「増加した」であるべきなのに「減少した」になっているなど)を探してもらった。
制限時間内の検出率は、紙のほうがタブレットより17・2%高かった。

実験B
2枚の文書(1ページ目が本文、2ページ目が注釈)を行き来しながら朗読をする実験で、紙とパソコンを比べた。ページを移動する際生じる中断は、紙のほうがパソコンより短かった。多くの人が2枚の紙の間に指をはさみ、読み終わる前にページをめくっていたことなどが理由と考えられる。
「目次のある本で『3章を開いてください』というと、ほぼ全員が、目次を見た後、目次に指をはさんだまま3章を開きます。もしページが違っていたらワンアクションで戻れます。習ったわけではないのに、身についている」

「目で情報を取るだけなら、紙でもデジタルでも、読むスピードや理解度はあまり変わりません。でも、読書の途中で著者情報を見たり、参考文献を見たりといったページを行き来する操作は、紙が抜群にしやすく、読みを阻害しない。デジタルは、ページをめくるなどの際、思考にプチプチ中断が入ってきます」
柴田教授自身が1年あまりの間「デジタルペーパーでだけ本を読む」という体験をしてみたそうだ。すでに持っていた紙の本も、250冊以上を裁断、スキャンして取り込んだ。
「私1人の例に過ぎませんが、気付いたことがいくつかありました。たとえば、自分が本のどのあたりの位置を読んでいるかがわからなくなりました。もちろん数字では『何ページ』と表示されますが、紙の本のように重さや厚さで感じるのとは違う。『終わりが来るぞ来るぞ』感もなく、いきなり終わったと感じたこともありました」