世論による政治の危うさ

9月25日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思・京都大学名誉教授の「国民主権の危うさ」から。原文をお読みください。

・・・私は、「民主主義の根本原理は国民主権にあり」というこの疑い得ない命題に対して、ずっとある疑いの念を持ってきた。いやもう少し正確に述べれば、この根本原則の解釈の仕方についてである・・・
・・・端的にいえば、世論は、安定した常識に支えられた「パブリック・オピニオン」であることはまれで、しばしば、その時々の情緒や社会の雰囲気(つまり「空気」)に左右される「マス・センティメント」へと流されるのである。そして、この不安定な「世論」が国民の意志つまり「民意」とみなされ、その結果、民主主義は世論による政治ということになる。
議院内閣制とは、まさにこの意味での国民主権の民主主義を部分的に抑制しようとするものであった。たとえば、英国人にとって英国の政治体制は何かと問えば、主権者は王であり、政治体制は議会主義だと答えるであろう。議会での討論こそが決定的な意味をもっており、民主主義はせいぜい選挙制度のうちに組み込まれている・・・

・・・では「国民主権としての民主主義」とは異なった民主主義の理解はありえないのだろうか。ありうる。というより、実にシンプルなもので、それはあくまで政治的意思決定のプロセスとして民主主義を理解することだ。「手続きとしての民主主義」である。論議を尽くしたうえでの投票による意思決定という手続きである。
そしてある程度有意味な議論が可能となるためには、限定された代表者による集会が不可欠になろう。これが議会主義であり、代表者を選ぶのが普通選挙であって、この手続き全体の妥当性が民主主義と呼ばれるものなのである。
議会主義にせよ、議院内閣制にせよ、こういう発想に基づくものであった。したがって、議院内閣制は、あくまで、民意や世論という「主権」からは距離をとるものであり、そこにこそ、「手続きとしての民主主義」の意味がある。

デモクラシー、つまり「民衆(デモス)の支配(クラティア)」は日本では「民主主義」と訳され、「主義」としての思想的な意義を与えられてきた。それは、ひとつの理念であり理想を実現する運動であった。この運動の目指すところは「民意の実現」にあった。だから、政治がうまくいかないのは、政治が民意を無視しているからだ、ということになる。いいかえれば、民意を実現しさえすれば政治はうまくゆく、という。こういう理解がいつのまにか定着してしまった。
私にはとてもそうだとは思えない。今日の政治の混迷は、将来へ向けた日本の方向がまったく見えないからである。将来像についてのある程度の共通了解が国民の間にあればよいが、それがまったく失われている。しかもそれは、どうやら日本だけのことではない。グローバリズム、経済成長主義、覇権安定による国際秩序、経済と環境の両立、リベラルな正義などといった従来の価値観や方法が、世界中でもはや信頼を失っている。

むろんそんな大問題について「民意」がそれなりの答えを出せるはずもない。だから目先の、被害者や加害者が分かりやすい、しかも「民意」がすぐに反応しやすい論点へと政治は流されてゆく。
福沢流にいえば、将来を見渡せる大きな文明論が必要なのであり、それを行うのは学者、すなわちジャーナリズムも含めた知識人層の課題であろう。福沢は、この知識人層が大衆世論(社会の空気)に迎合していることを強く難じた。知識人層は、民意の動きを読み、同調するのではなく、逆にそれに抗しつつ、それを動かしてゆくものだ、というのである。150年前の福沢の主張は、今日ますます新たな意味を持っているのではなかろうか・・・