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人生の表現

「服装はその人の生き方だ」と書いてから、「住宅は住む人の思想だ」ということを思い出しました。建築家の渡辺武信さんが「住まい方の思想-私の場をいかにつくるか」(中公新書、1983年。中公新書にはあと数冊書いておられます)で主張しておられました。そこには、住宅がハードウエアでなく、住む人と家族の生き方を反映すべき、あるいは反映するものであることなど、考えさせられることが書いてあります。
もっとも、住宅の設計は、私たちの人生にとって、そう何度もあることではありませんが、服装は毎朝選ばなければならないので、よりつらいですね。
また、「生き方の選択」という点では、自由時間の過ごし方も、そうでしょう。麻雀をする、ゴルフに行く、パチンコをする、本を読む、ごろごろしている。それぞれが、その人の生き方の表現です。でも、服装の選択は、衆人に評価されることが、自由時間の過ごし方よりつらいです。

(周りが変わると)
「で、おまえは何を着て行っているのか」という質問があります。5月には、「岡本さんは、6月から何を着るのですか」という問いも、たくさんありました。「ふだんでも、変わった服装をしているので、軽装になったら、どんなとんでもない服装になるのか」という期待だそうです(笑い)。また中には、「おまえはへそが曲がっているから、みんなが軽装になったら、普通の服装になるのではないか」とおっしゃる方もおられました。
申し訳ありません、期待を裏切って。これまで通りの服装で行ってます。スーツの日もあれば、色が違う上着の日もあり、ネクタイは基本的にしています。何が変わったかというと、これまでこの服装(+クレリックシャツ)は、紺のスーツ軍団の中で目だったのに、今はちっとも目立たなくなりました(笑い)。もう少し暑くなったら、半袖ノーネクタイにしようと思っています。

続・夏服騒動

前回書いた「夏服騒動」は、たくさんの反響がありました。その続きです。
(霞が関の社会学)
霞が関・永田町では、夏服騒動が続いています。「逮捕されるまで、俺はネクタイを外さないぞ」と言った官僚がいるとか(逮捕された人が、自殺防止にネクタイを外され連行される姿がテレビで映ります。そのことを指しています)、奥さんと久しぶりにシャツを選びに行ったとか、話題には事欠きません。「毎日、着ていく服を選ぶのが大変だ」という声が多いです。
ネクタイを締めていると、「どうしてネクタイをしているんですか」と聞かれる「アカ狩り=非同調者捜し」があります。外していればいるで、「あの服装はださいよね」といった「品評会」もあり、社会学の良い研究対象になっています。

(ネクタイ外せば、クールビズ?)
「上着脱ぎ、ネクタイ外せば、クールビズ」と思っていたら、そうではなさそうだ。ということがわかったのが、この10日間の学習効果でしょうか。ふだん着ているシャツは、ネクタイを外しただけでは、かっこよくないのです。
みんな、あらためて、ネクタイの効用を認識しています。その1は、ネクタイをしていると、視線が顔でなく、ネクタイに注がれること。そして、「ぼやけた顔への注目が低くなる」ことです。ところが、ネクタイを外すと、視線はすべて顔に行ってしまいます。その2は、太ったお腹が、そのまま見えてしまうこと、です。これが、昨日、野田聖子議員と議論した結論です(笑い)。
ネクタイは、実用の面ではほとんど機能がない布きれです。それが、これだけ長期間、また世界中の男たちに採用されてきたのは、単なる慣習でなく、それだけの機能があるのですね。

(服装の思想)
ノーネクタイ運動が日本の社会を変えるということを、前回書きました。「個性を殺して回りに同調すること、自分で考えずに指示を待つこと。この二つに慣れた男たちに、革命を迫っているのです」と。10日の朝日新聞「三者三論、クールビズ定着するか」での、成実弘至助教授の主張も参考になります。
「ネクタイを外しただけでは、かっこよくない」となると、これからはどのような服装を選ぶか、各人の「服装に関する考え方」=「服装の思想」が問われることになります。「人は外見で評価してはいけない」という警句があるのは、しばしば、「人は外見で評価される」からです(拙著「明るい係長講座」)。
「紺のスーツにネクタイ」は、サラリーマンの制服であり、これを着ている分には安心でした。「スーツとネクタイ」という制服がなくなって、各自が服装を考えなければならなくなりました。そして、その服装は、周囲の人から評価されます。大げさに言えば、その人の「生き方」としてです。
夏向きの素材、値段という制約、TPOの制約のなかで、どれだけかっこよくできるか。社会に調和しつつ、個性を出すこと。とんでもない服装は、社会からの逸脱になります。ホテルなどには、入れてもらえないでしょう。ダサイ服装は、センスが疑われます。「たかが服」と、バカにはできないのです。奥さんたちのセンスも問われます。

三位一体改革48

5月30日の産経新聞は「義務教育費国庫負担、三位一体改革に赤信号」を解説していました。「最大の焦点である義務教育費国庫負担金制度をめぐって、存続を求める文部科学省と自民党文教関係議員の巻き返しが功を奏しつつあるからだ。また生活保護費と児童扶養手当の見直し問題でも厚生労働省が押し気味で、いずれも地方側は後退を余儀なくされている。」
毎日新聞は、「知事たちの闘い-地方分権は進んだか」第13回「義務教育論争、国庫負担はなぜ必要?」を載せていました。2004年7月15日の知事会議での義務教育国庫負担金をめぐるやりとりです。(5月30日)
1日の日本経済新聞は、「補助金削減、自治体、足並みに乱れ」「義務教育費巡り溝」を書いていました。その中に「地方案実現率わずか5割」として、各省別の金額が出ていました。拙稿「続・進む三位一体改革」では資料16として、各省ごとに、地方案と、各省回答と、政府与党合意の金額を3つ並べておきました。こちらの表の方が、おもしろいですよ。ちなみに、地方案は3.2兆円、実現したのは1.1兆円ですが、各省回答はたったの810億円でした。これが、日本の官僚の実態です。
骨太の方針で、3兆円の税源移譲を閣議決定したのですから、各省は補助金の一般財源化を拒否するなら、代案を出すべきでしょう。去年の秋には、官房長官が繰り返し、各省大臣に指示を出しました。
また、公共事業補助金の一般財源化について、財務省は反対だと記事は伝えていますが、それなら別の補助金の一般財源化を提案しないと、責任は果たせませんよね。
サボタージュする官僚に対し、内閣がどのような政治主導を発揮するのか、見守りたいと思います。
ところで、中教審を始め、義務教育費国庫負担金の一般財源化に反対する人が、その一番の根拠に「交付税は借入金が多く、今後交付税が減らされ、義務教育費が十分確保されないおそれがある」ことを挙げられます。
でも、これって、一方的な指摘ですよね。国と地方の財政を比べれば、国の方がはるかに悪いのです。借金はフローでもストックでも、国の方が多いです。「プライマリーバランスは地方の方が良い」という、攻撃すらあるのですから。
「今後、交付税が減らされるおそれがある」と主張するなら、「交付税より財政状況の悪い国家財政が削減され、義務教育国庫負担金も交付税以上に減らされるおそれがある」と、主張すべきでしょう。
「国庫負担金だから削減はないだろう」という考えは甘いです。現在でも、不交付団体に対する義務教育費国庫負担金はカットされています。また、これまで国は、財政難を理由に補助率カットを行ってきました。
もっとも、この理由での反対には、反論が簡単です。「じゃあ、財源さえ確保されれば、一般財源化で問題ないんですね」と。この反対は、分権論や制度論には何にも応えていない、いわば逃げですから。(6月1日)
4日の朝日新聞社説は「三位一体改革、決着への論議が始まった」でした。「ことし、まず決着を迫られるのは、この6千億円の中身だ。地方は公共事業への補助金の廃止を求めるだろう。福祉など使い道が限られている負担金に比べ、廃止されれば地方の裁量枠が広がるからだ。義務教育の国庫負担も、廃止か存続かを決めなければならない。」
「三位一体改革の二つの潮流のうち、まず分権を進めて効率化を図り、その結果として財政再建を実現させていくのが筋である。昨年までの論議が混乱した一因は、この道筋が共通認識になっていなかったからだ。今年はまず国と地方で、改革の順序を確認すべきだ。」
「昨年、最終局面で沈黙した小泉首相と、新しい知事会長の麻生渡福岡県知事の責任は重い。」
よく整理してある主張だと思います。このような、マスコミの監視と後押しがなければ、分権は進みません。ありがとうございます。どんどん、注文を付けてください。(6月4日)
6日の毎日新聞は、連載「知事たちの闘いー地方分権は進んだか」14回を載せていました。
月刊「自治研究」(第一法規)6月号に、岡崎浩巳総務省官房審議官(自治税務局担当)が、「平成17年度の三位一体の改革と税源移譲」を書いておられます。この間の税源移譲に関する議論とあわせ、現在、所得譲与税などで暫定的とされている「移譲」を、実際に地方税とする場合の課題などについても整理されています。(6月6日)

夏服・クールビズ騒動

今、霞が関と永田町をにぎわしている最大の話題は、郵政民営化でも、財政再建でもありません。それは、男の夏の服装です(笑い)。しかし、この問題は、日本の政治と社会にとって、本当に大きな問題なのです。
事の起こりは、省エネのため環境大臣が、ノーネクタイ・ノー上着を提唱したことです。官房長官も同意してモデルをかってで、総理も「よいことだ」として、閣僚の申し合わせになりました。6月から9月の間、軽装で良いこととなりました。各省に、お達しがでました。一方、国会においても、衆参両院で少し違いがありますが、本会議以外はノーネクタイ・ノー上着を認めることとなりました。
あくまでも「軽装でも良い」なのですが、あたかも「軽装にしなければならない」かのように、受け止められています。ネクタイをしていると、「なぜしているんですか」と質問されるくらいです。官僚の間には、パニックに近い「衝撃」を与えています(笑い)。これは、日本の文化、官僚文化を知る良い事例です。論点はいくつかあります。

1 問題はノーネクタイ。着ていくシャツがない。
多くの官僚は、ノー上着に悩んでいるのではありません。執務室ではほとんどの人が、脱いでいます。外出時でも、手に持っていますし。問題は、ノーネクタイです。
簡単に言うと、白いワイシャツ、特に長袖の場合、ネクタイを外すとかっこわるいのです。半袖シャツの場合は、ノーネクタイでも、かっこわるくありません。カラーシャツなら、十分かっこいいです。
しかし、これまで上着を着るときは、半袖だと上着の袖に汗で腕がくっつくので、大概は長袖シャツを着ていました。
ノーネクタイに似合うシャツと上着を、持っていないのです。持っているのは、ゴルフシャツをはじめとするポロシャツです。ところが、これはスポーツウエア、くつろぐ服装であって、仕事服ではありません。また、内規で、「ポロシャツは認めない」となっています(私は、こんなことまで規定するのはおかしいと思いますが)。
ネクタイ無しでも、襟元がかっこよく見えるシャツが、売りに出されています。これが定着するには、もう少し時間がかかるでしょう。もっとも、多くのサラリーマンは持っていないので、これから買いそろえると、一時的な消費拡大にはなります。

2 何を着ていいか、わからない。
実は、多くの人は、シャツを持っていないことを悩んでいる以上に、何を選ぶかを悩んでいます。
これまでの服装、即ち、紺のスーツに白いワイシャツは、官僚の制服でした。悩まなくてよかったのです。これが20世紀の会社至上主義、中央集権の表れであることは、拙著「新地方自治入門」のp322、p57に書きました。
制服=言われたことを守る=自分で考えない=楽、です。これに対し、服装が自由=毎朝悩む=自分で考えなければならない=大変、です。「制服=指示と従属」に対し、「服装自由=自律」なのです。今回の騒動は、夏服が問題なのではなく、「制服廃止」が問題なのです。

3 社会のありかた
となると、ノーネクタイ運動は、日本の社会のありよう、官僚文化のありようを、変える可能性があります。個性を殺して回りに同調すること、自分で考えずに指示を待つこと。この二つに慣れた男たちに、革命を迫っているのです。かつての省エネ服は失敗に終わりましたが、今回のノーネクタイ運動が成功することを、私は期待しています。
①生活面
なんと言っても、亜熱帯の日本で、夏にネクタイと革靴は無理だと思います。「脱亜入欧」の象徴ですね。フィリピンやインドネシアのような、かっこいいのが定着すると良いですね。
②意識面
思考停止人間や過同調人間を、作らないようになる。ようやく、日本に自律した人間が育つのです。
③社会面
女性は既に、このようなことを経験しています。もちろん、個性を消してリクルートスーツの人もいますが。男だけが、「会社人間で自己満足している社会」を変えることにもつながるでしょう。
④文化面
しばらくは「とんでもない服装」も、出現するでしょう。しかしそのうち、収斂すると思います。それはデザインの面と、色のコーディネイトの面においてです。これは訓練するしかないのです。

4 政治の役割
そうすると、今回の内閣によるノーネクタイ運動は、日本の社会を変えることにつながるのです。「内閣が、個人の服装まで口を挟むのか」という疑問がありますが、これも大きな政治の仕事でしょう。
明治の初めに、時の政府が官僚の服装を、和服から洋服に変えました。今回の「閣僚申し合わせ」は、「第2の開国」になるかも知れません。すると、ノーネクタイ運動は、地方分権と同じ次元、同じベクトルにあります。個人(特に官僚)の自律と地域の自律です。私のように日本の社会と政治を考える者にとっては、今回の運動は、このように見えます。だから、ぜひ成功してほしいのです。

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今日は、東大に教えに行っていたときの、ゼミの同窓会がありました。院に残って研究を続けている人、外交官を始め公務員になった人、商社マンや銀行員になった人など、それぞれに活躍中です。研究室で助けていただいた田辺さんも参加していただき、恐縮です。みんな見違えるようになっていて。嬉しいですね。これからも、時々開いていただけるそうで、楽しみです。