朝日新聞7月5日オピニオン欄、平田オリザさんのインタビューから。
・・ダイアローグ(対話)とカンバセーション(会話)は、明確に違います。私なりに定義すると「会話」は親しい人同士のおしゃべり。「対話」は異なる価値観などをすりあわせる行為。しかし日本語の辞書では「【対話】向かい合って話をすること」などとされ、区別がない。
・・日本語は、閉じた集団の中であいまいに合意を形成するのにはとても優れた言葉です。日本文化の一部ですから、悪い点ばかりではない。近代化以前の日本は、極端に人口流動性の低い社会でした。狭く閉じたムラ社会では、知り合い同士でいかにうまくやっていくかだけを考えればいいから、同化を促す「会話」のための言葉が発達し、違いを見つけてすりあわせる「対話」の言葉は生まれませんでした
・・対話のための日本語はいまだにつくられていない。富国強兵、戦後復興、所得倍増と大きな国家目標があって、それに向かって努力していればきっと幸せになれると多くの人が信じているような社会では、多様な価値観は生まれにくい。みんなが一丸となって目標に突き進めばよかったので、対話は必要なかったのです・・
なるほどと思います。ただし、農村社会ではこの説は有力だと思いますが、相手との駆け引きや競争が必要な商人の世界では、どうだったのでしょうか。また、日本と同じような環境にあった国では、どうだったのでしょうか。たとえば韓国やネパールとは、どこが同じでどこが違うのでしょうか。さらに掘り下げて、知りたいです。
私も日本社会論や日本特殊論を語ってきましたが、ほとんど欧米との比較であって、アジアとや全世界との比較ではありませんでした。欧米を基準とした比較に陥らないようにしなければならないと、反省しています。
この項続く。