「公的な私文書」の続きです。連載「公的な私文書を生かす」の最終回6月1日の「歴史を糧に、未来へのよりどころに 公文書館、外交史料館が担う重責の記事」に、遠藤乾・東京大学大学院法学政治学研究科教授が意見を書いておられました。
・・・一般に政治家や官僚は、3重の検証をくぐる。かつて英国に3年滞在した際、最も羨ましかったのは、その3重の検証がきちんと作動していたことだ。
第1は、批判ジャーナリズムである。これは、現場から現状と問題点を同時代的に伝える。ときに画一的な報道に陥る米国に比べて、英国の水準は高い。
第2は、半年から数年内に行われる政策検証である。例えばユーゴ紛争の1年後、オックスフォード大学では点検セミナーを開いていた。時の外相、NATO司令官、EUや国連の行政官、NGO活動家などを連続招聘し、問題点を洗い出す。自由闊達な議論は、呼ばれた実務家が嘘をつかず、その発言を研究者が引用しないというルールで可能になっていた。
しんがりを務める第3は、歴史家による検証である。これは最終的な審判といってもよい。英国をはじめ欧米諸国には、政策決定の過程を公文書の形で残し、ほぼ30年の時を経て公開する仕組みが整っている。日本でも、福田康夫元首相が主導し、公文書管理法ができた。
戦後の日本では、ながらく思想(史)系の知識人が時代を括り意味づけてきた。欧州では、歴史家の比重が高い。公文書がひも解かれ、そこから出てくる歴史解釈でようやく、政治家や行政官の評価が定まってゆく。だから歴史論争はいつも激しく戦われ、自然と実務家は歴史の審判を意識する。
日本の政治家や官僚は、この歴史の審判をこそ、意識すべきだ。その場限りでなく、後世に照らし恥ずかしくない行政や外交を展開しているか。その方向に向かうために公文書関連の法律ができた。しかし、法律になることと、それがきちんと整備され、さらにそれを後づけではあれ気にする文化が根付くことのあいだには距離がある。今後、かなりの年月と各方面の努力を要するだろう・・・
この3つの検証は、わかりやすいです。政治家も幹部官僚も、これを意識しながら判断をする必要があります。日本でも、第2の検証がでできませんかね。
私は、「閻魔様の前で申し開きができるか」を行動の指針としていました。