意味の世界に生きる人間

ピーター・バーガー著『聖なる天蓋 神聖世界の社会学』(2018年、ちくま学芸文庫)を読んでいます。
宗教の持つ機能を知りたくて、これまでにいくつか本を読んだのですが、私の関心に合う本は見当たりません。この本が、私の疑問に答えてくれそうなのです。
文章は平易なのですが、内容が高度に抽象的でもあり、なかなか先に進みません。このような深い意味のある本を、布団の中で読むことが間違いです。昨日読んだところは何が書いてあったかと振り返る必要があり、少しずつしか進まないのです。
とはいえ、一気に読み通せる内容ではありません。で、途中で考えたことを、書き留めておきます。

宗教は世界の成り立ち(ときには宇宙や死後の世界も含めて)を説明してくれます。それが、社会に秩序をもたらし、個人に居場所と生きる意味を与えてくれます。

p105 「神義論が第一義的にもたらすものは、幸福ではなく、意味なのである」
キリスト教にしろユダヤ教にしろ仏教にしろ、生きていく際の苦しみ(生命、病気、貧困、差別、家族との軋轢)などを緩めてはくれません(貧しい信者に「もっと喜捨をせよ」とか、聖戦と称して命を差し出すことを命じることすらあります)。しかし信者は、教えを信じることで生きる意味(場合によっては、生命を差し出す意味)や安心を得るのです。
宗教が与えてくれる意味の世界は、利害得失の物差しとは違う基準ですから、異教徒には理解できないものです。

ではなぜ、生きる意味を求めるのか。
一つには、「なぜ私はこの世に生まれてきたのか」「私の生きる意味は何か」「なぜ人は死んでいくのか」「死んだら私はどうなるのか」という「意味の世界」に人は生きているからです。自然科学は、どのようにして人が生まれ死ぬかを説明してくれますが、その意味は説明してくれません。
もう一つは、苦しいことや困った事態に出会ったときに、人はその緩和を求めます。しかしそれが実現しない場合に、その説明やよりどころを求めます。それぞれに理由はあるのですが、納得できないこともあります。その場合に、それを宗教は説明してくれるのです。それは時に本人の力不足であったり他人の方が条件がよかったりするのですが、それを認めたくない場合は、前世からの報いであったり、世界の秩序が理由となります。
苦しみや困った場合でなくとも、御利益を期待して神に祈る場合もありますが。