6月13日の日経新聞経済教室、野口雅弘・成蹊大学教授の「根源に「家産制」の復活」から。
・・・法の支配の反対は人の支配である。このときの「人」は特定の個人の信条、パーソナルな好み、あるいは気まぐれなどを指す。
権力者のパーソナルな命令に従いたくない。少なくとも命令の理由について議論する機会が欲しい。法の支配を支えるのは、理由なき支配を押し付けられたくないという個々人の気持ちである。そしてこうした気持ちが持続的に共有されることで成り立つエートス(倫理的な構え)によって、法の支配は維持される・・・
・・・ところが近年、法の支配の危機がいわれることが増えた。とりわけ大統領に返り咲いたドナルド・トランプ氏の言動を巡っての指摘である。行政機関の縮小・解体のため設置された「政府効率化省」(DOGE)は権限の不明確さや利益相反で批判されている。政権の方針に従わない人々、組織への制裁も露骨だ・・・
・・・トランプ氏の統治について、いま注目されている言葉がある。長らく忘れられていた家産制(パトリモニアリズム)である。ウェーバーが「支配について」で100年前に論じたものだ。父による家族の支配を意味する家父長制を国全体に拡張したシステムが、家産制である。これにより国家は巨大な「ファミリービジネス」になる。政治リーダーは従順なフォロワーをえこひいきし、恭順を引き出す。近代的な意味での法の支配は「人がだれかを問わず」が原則だが、家産制では逆に「人しだい」で対応が変わる。
ウェーバーによれば、家産制は近代的な官僚制以前の伝統的な支配形態である。合法的支配の典型である官僚制では、恣意性が可能なかぎり除去され、計算可能性が高められる。過去、行政課題が増大し、業務が複雑になり、専門性が求められるようになると、権力者のパーソナルな要素に依拠した家産制は行き詰まった。とりわけ財政、軍事、司法の分野で、素人の判断が通用しなくなるからだ。
家産制はしだいに官僚制の論理に席を譲っていった。当時、ウェーバーが危惧したのは恣意的な支配ではなく、むしろ過剰な官僚制化のほうであった。
1970年代にはイスラエルの社会学者S・N・アイゼンシュタット氏らによって「ネオ家産制」の概念が用いられた。アフリカなどの途上国で、形式的には近代国家だが実際には縁故や個人的なネットワークが政治的決定や利益の配分に重要な役割を果たしていることに注意が向けられた。
一方、今日の家産制論の主たる対象は前近代的国家や途上国ではない。米国の比較政治学者スティーブン・E・ハンソン氏とジェフリー・S・コプスタイン氏は共著「国家への攻撃」で、ハンガリー、イスラエル、英国、米国などで進行する家産制化による近代国家の原則の破壊について論じている。親近者やお気に入りを要職に登用すること、司法制度への介入、性的マイノリティーや多様性の否定といった現象を、彼らは家産制の概念と関連づけて説明している。
なぜ21世紀になって家産制がリバイバルしているのだろうか。私がとくに強調したいのは、この体制が、新自由主義以後の状況で可能になっている点である。定期的に繰り返されてきた官僚制批判や公務員バッシングが、えこひいきのない公正な行政という理念をおとしめてきた背景がある・・・