日本的美徳が招く法令・倫理違反

3月12日の日経新聞経済教室は、古田裕清・中央大学教授の「コンプライアンス違反、仕方ないは許されず」でした。法哲学からの解説です。個人主義の欧米と集団主義の日本との違いが背景にあります。

・・・米国発の「コンプライアンス」が日本でも叫ばれて久しい。この語は現在、法令順守のみならず、法令を超えた倫理的要請(SDGsなど企業の社会的責任を含む)への応答をも含んで理解されている・・・

・・・法的人格はプラトン的理念だ。人は現実には自由でも平等でもないかもしれないが、そうあるべきだ。近代欧州はこの理念に導かれ、社会変革を遂げてきた。
この理念には2つ淵源がある。一つは、神の前における万人の平等を唱え、神への帰依を自ら選び取る決意を各自に求めるキリスト教である。神は法と正義の保証者であり、各信者は一人の人格として自由意思により神と契約を結び、その保証にあずかる。
もう一つの淵源は、印欧語族に共通する強い自己意識だ。印欧語族はもともと遊牧民であり、遊牧は各自が何をどうするのか、明確に言語化して相互伝達し、持ち場をこなさねば成り立たない。動詞の主格(主語)を必ず明示する印欧語の文法特徴は、これを反映したものとされる。
近代法の骨格をなす「一人ひとりが自分の行為に責任を持つ」という原則の背景には、こうした数万年の歴史がある。定住生活へ移行した古代ギリシャそしてローマがセム語族由来のキリスト教を受容し、2つの淵源は結びつく。ローマ法を継受した教会法から世俗法が分離していく中で、法的人格の尊厳を基調とする近代法が結実する。
ローマ法系と英米法系の違い、米国型立法論(自由を強調するロックの伝統)と欧州大陸型立法論(平等を自由と同程度に重視するルソー・カントの伝統)の違いはあるが、近代法を導く理念は共通する・・・

・・・実際の企業活動は富の偏在、弱者搾取、公害被害など不自由や不平等も発生させるが、近代法は税法や労働法、社会保障法や環境法などを整備してその緩和や解消を図ってきた。近代法、会社という法制度を、外形的に導入することに明治日本は成功した。現行憲法には個人の尊厳も明示的にうたわれる。だが、その根っこにある欧州の理念的人間像は、日本の一般市民に定着したとは言い難い。

日本には昔から、所属する共同体におけるチームワークや和の精神を重んずる美徳がある。家族や地域、学校のクラス、会社の取締役会や各セクション、これらはそれぞれ閉鎖的な共同体であり、その成員は美徳の体現を期待され、共同体内部を支配する自生的規範(しばしば「空気」「雰囲気」と形容される)への同調圧力にもさらされる。
美徳は一つ間違うと容易に悪徳へと転化する。セクション内で法令違反があっても事を荒立てず沈黙する。ワンマン社長が不祥事を起こした会社の取締役はしばしば「とても言い出せる雰囲気ではなかった」とのたまう。子供たちは学校で周囲を気にして忖度を学びながら成長する。自由で平等な個人として自己決定するのをくじく文化が日本にはある。
逆に、共同体への帰属こそが自らのアイデンティティーとなりがちだ。夏目漱石が読まれ続けるのは、近代欧州的な自我の確立が今も困難だからだろう。これは、実生活の中で他者や自分自身を法的人格とみなすことが今も人々にとって困難であることを意味する。陰湿ないじめ、女性軽視がなくならないのもその表れであるように思われる。

日本語は主語の明示を嫌う。強い自己意識に支えられた外来の理念を、日本語で生活する人々は共有できないのかもしれない。だが、理解はできるはずだ。日本が近代法を取り入れて百年以上になる。市場のグローバル化は進み、不祥事を発生させた企業に黒船外圧がコンプライアンスの実質化を迫る時代になった。
市場の信認を得るには、社内外を問わず世界中のあらゆる人を法的人格とみなして尊重する意識を、経営者にも現場にも徹底させることが必要だろう。この意識があれば、ユーザーや取引先を欺くに等しい品質偽装など誰にもやれないはずだ。近年の日本の歴代首相は中国を念頭に「法の支配」を連呼するが、この英米法用語は日本の企業人にも向けられねばなるまい。
法の支配が企業統治にも浸透すれば、法により守られるという長期的利益が我々の生活に広くもたらされる。理念は漸進的にしか現実化しないことは、歴史が示している。日本も百年単位で見ると、関係者の努力や啓発により法の支配がゆっくりと根を下ろす方向にはある。「法令違反は仕方ない」と誰も思わなくなるまで、この努力と啓発を続けるしかないのだろう・・・