尾身茂さん、専門家と政府

日経新聞「私の履歴書」、尾身茂さんの第25回(3月26日)「東京五輪」から。
・・・感染対策と社会経済のバランスをどううまくとるか。政府と専門家の考えは度々、微妙に違った。特に感染状況が厳しくなると、その差は明らかになり、マスコミでも大きく取り上げられた。代表的なのが「Go To キャンぺーン」と東京五輪だ。
政府は、コロナにより打撃を受けた観光関連産業などを支援するため、2020年7月ごろ、東京などで感染拡大が起きていたにもかかわらず、「Go To」の開始を検討していた。
7月16日、感染症対策分科会が開かれた。当初、「Go To」が議論されるはずだったのだが、会議開始直前、報道を通じて22日から「Go To」が始まるとの決定を知らされた。
「分科会は何のためにあるのか、ただ政府の決定事項を追認するためだけなのか」。私を含め専門家は大いに不満だったが、22日開始を覆すことなどできなかった。

11月に入ると再び感染が急拡大し、医療の逼迫の懸念が高まってきた。20日には、こうした地域を対象として「Go To」を中止するよう政府に求めた。
もちろん中止によってダメージを受ける事業者には財政支援も同時に検討するよう提言には付け加えたが、残念ながら政府はすぐには動かなかった。
12月になると再び緊急事態宣言を発出せざるを得ないほど状況は悪化してきた。14日、菅義偉首相は全国一律で「Go To」休止を宣言した・・・

・・・1年延期になった東京五輪への対応はさらに厳しいものだった。
当初、世界最大のスポーツイベントについて発言するつもりはなかった。実際、21年3月、国会に呼ばれ野党の議員から「(感染状況が)どの程度になればオリンピックは開催可能か」と質問され「開催について判断、決断する立場にない」と答えていた。専門家として矩(のり)を踰(こ)えるべきではないと思っていた。
しかし開催まで2カ月を切った6月に入ると、そうした姿勢を転換せざるを得なくなった。7月の4連休、夏休み、お盆が重なり、その上、感染力の強いデルタ株の出現を考えると、開催の前後には緊急事態宣言を出さざるを得なくなると判断したからだ・・・

・・・私たちは毎夕、都内の大学の会議室に集まり、どこまで踏み込むのか、どのようなデータを出すか、どんな言葉を使うか、など深夜まで議論を重ねた。
我々の責任だということは頭ではわかっていた。しかし、導き出す結論に対する国内外からの反応も予測できた。私自身、最後まで迷う気持ちがどこかにあった。
その時、メンバーの一人からメールが届いた。「ここで(五輪に対する見解を)出さないなら、みな委員を辞めたほうがいい」。この言葉で私は覚悟を決めた。
6月18日、専門家有志26人により「無観客五輪」を提案した。何度か「ルビコン川」を渡った。振り返れば東京五輪開催を巡って渡った川が最も深く、激流だった・・・