民意、感情と理性

2月14日の朝日新聞オピニオン欄、山腰修三教授の「メディア私評」「民意を捉える 感情か理性か、誰に何をどう語る」から。
「民主主義にとって民意を捉えることが困難な時代」が来たと指摘して、次のように述べておられます。

・・・確かに一般の人々とジャーナリズムとの距離は、ますます広がりつつあるように見える。重要な点は、それが日本特有のものでも、偶発的な問題でもないということだ。民意の流動化それ自体は、ポピュリズムの台頭に見られるように今日の自由民主主義諸国に共通する現象である。そしてその背景にはメディア環境の変容、中間層の衰退、価値観の多様化といった社会の構造的な変化がある。

このように社会の急激な変化の中で民意が流動化する経験は過去にもあった。例えば20世紀前半には都市化、選挙権の拡大、そしてマスメディアの発達といった社会の大規模な変化の中で、民主主義の「危機」をめぐる議論が活性化した。それは民主主義を担う一般の人々は「市民」なのか「大衆」なのか、という問いでもあった。この場合、市民は理性的で自律性があり、対話を通じて政治に参加する存在であり、大衆は感情的で空気に流され、政治的な無関心と熱狂とを揺れ動く同質的な存在とされていた。
当時のジャーナリズムもまた、新聞読者層の急増を受けて「自分たちがニュースを伝える相手は誰なのか」という問題に直面した。ここで人々に「大衆」(感情)と「市民」(理性)という矛盾した二つの顔を同時に見いだす民意の捉え方が徐々に確立されてきた。その結果、大衆向けのビジネスモデルに根差しつつ、市民に向けて語るというジャーナリズムの文化が作られたのである。

今でも新聞の社説は市民としての読者に向けて語られる。その一方で、記事作りでは読者の大衆的な関心を高めるための「分かりやすさ」が求められ、時として感情を喚起するトピックや表現が重視される。そしてこの文化には、ジャーナリスト自身が市民として大衆世論を導くべきだという規範も組み込まれてきた。
この民意の捉え方はある種のフィクション(虚構)によって成り立っている。新聞読者の多くが日常的に社説や専門的な解説記事を熟読し、あらゆる争点について自分なりの考えを持つことは想定しがたい。その一方で人々はジェンダー、年齢、職業、地域、価値観や問題関心などの点において多様であり、決して一枚岩的な大衆ではない。マスメディア時代は新聞を購読する一般的習慣が存在し、新聞向けの広告市場も「おそらく多くの人が読むであろう」という想定で運用されていた。つまり、人々が市民としてニュースに日常的に接触しているという幻想に基づいて大衆向けのビジネスモデルが成り立っていたのである・・・
この項続く。