ペットボトルキャップ運動

ある事業所で聞いた話です。
自動販売機を設置してあるのですが、利用者が飲み残しをペットボトル回収箱に入れてしまうことがあります。業者が回収する際に、液体が飛び散り周囲のものが汚れる被害が出るそうです。
解決策として、キャップを外してペットボトルを回収箱に入れてもらう方法を考えました。ペットボトル回収箱のほかに、キャップ回収箱を置くのです。
そして、認定NPO法人「世界の子どもにワクチンを日本委員会」の支援活動『ペットボトルキャップ運動』へ参加することにしたそうです。

利用者の協力が得られれば、効果的な方法ですね。うまいことを考える人がいるものです。

世界でも珍しい日本の国会

1月22日の朝日新聞オピニオン欄、野中尚人・学習院大学教授の「日本の国会、変われるか」から。

―日本の国会審議は、国際標準とは異なるのですか。
「1955年の保守合同で自民党や55年体制ができて以来、日本の予算案や法案は基本的に政府が与党の事前審査を受けて提出してきました。特に与党議員には賛否を縛る党議拘束もあり、いったん国会に提出するとめったに修正されず、審議が尽くされていなくても半ば自動的に可決されてきました。そうした自国の国会のあり方については知っていても、それが世界の民主主義国と比べてどうなのかは、国会議員や官僚もあまり知らないのではないでしょうか」
「たとえば、国会の本会議は日本では年60時間ぐらいしか開かれませんが、欧州諸国の議会では年1000~1200時間が標準です」

――日本の20倍とは……。
「ほら、そう感じるあなたも、日本の政治にどっぷり漬かってマヒしているんですよ。欧州だけでなく、台湾や韓国などどこに行っても、日本の国会本会議は年60時間だと言うと『それで議会と議員が役割を果たせているのか』と驚かれます」
「国際標準では、議員全員が参加できる本会議での全体討論が重要です。まず本会議で大きな枠組みを討論した上で、委員会で論点整理して議論を精緻にした後、また本会議に戻って十分に全体討論してから採決します。つまり、日本のように委員会に事実上任せるのではなく、全員が意見を言える本会議で全体討論する機会を確保するのが当たり前なんです。委員会はもちろん大変重要ですが、あくまで下準備なんですよ」
「だから審議時間は、重要法案を委員会で30時間やったら、大体そのあと本会議で50時間ぐらいやる感じです。ドイツでは委員会審議が重視されており、ほかの欧州諸国より本会議は短いですが、それでも年600時間と日本の10倍です」

―それだけ時間をかけて議論するということは、予算案が国会で修正されることも海外では当たり前なのですか。日本では28年ぶりでしたが。
「充実した議会審議の仕組みがある場合、政府提出の予算案が全く無傷で通るなんていうことは、ほとんどありません」
「ドイツでは、年によって増減はありますが、予算額全体の5%ぐらいが議決を経て修正されます。英国は、実は政府の主導権が極端に強い例外なのですが、それでも近年は議会の与党から注文がつけば、それに応じて政府が修正するパターンが増えています。欧州だけでなく、かつては政治制度上も日本の影響が強かった同じ東アジアの台湾や韓国でも、国際標準的な予算審議が行われています」

――具体的に、どのように予算案は審議されるのでしょう。
「まず議員への説明は、我が国のように与党の事前審査が先行するのではなく、議会プロセスに入ってから、与野党合同で行われることが多いです。当然、質問や意見交換がありますが、その後が重要です」
「どういう項目にどういう修正を要求するか、個々の会派や議員レベルで、項目ごとに修正案をつくります。昨年、調査に訪れた台湾で聞いたら、毎年700項目ぐらいの予算の項目のうち、相当な数のものについて修正要求が出てくるとのことでした。『これは絶対ダメだから削れ』とか、『この項目は実態を説明するレポートが出るまで凍結だ』といった具合です」
「本会議(台湾)か予算委員会(韓国)で最初に予算全体を議論した後、それぞれの常任委員会で各分野の予算を項目ごとに議論しているわけです。たとえば農林水産予算は、農林水産委員会で『この項目については、こういう修正要求が出ていますが、ほかに意見のある方はいませんか』などと、議会を挙げて1カ月ぐらいかけて項目ごとに議論し、そして項目ごとに議決していきます。もめる場合には『党団協商』(台湾)や予算委員会(韓国)で調整し、最後は本会議で討論のうえ、最終的に投票で決着をつけます」
「台湾の党団協商も与野党間の交渉のチャンネルですが、議会の公式の制度であり、いわば『表』のプロセスです。大事なことは、具体的な予算項目について公の場で議論をして、誰がどんな意見を出して予算案がどう変わったのか、あるいは変わらなかったのかが、公的な記録に残るということです」
「どの議会も、予算案は3カ月ぐらいかけてしっかり審議しています。それから考えると、日本の国会は本当に予算審議をしているといえるでしょうか」

―国会の本来の役割とは。
「国会の本質的な特徴とは、議論をした上で、社会の全構成員を拘束するルール、つまり法をつくれることです。話し合いをする組織自体はほかにもたくさんありますが、それらとは根本的に違うのが、まずそのことです」
「もう一つ、そのために意見や立場の異なる人が公開の場で討論をすることが、私は決定的に重要だと考えています。ところが日本の国会は55年体制が成立して以降、与野党による討論が実質的に行われていません。野党が政府を監視する、という重要な機能を果たしてきたことは忘れてはいけませんが、与野党の討論や熟議の場としては、役割を果たしていないと思います。これらは法律ではなく、戦後の55年体制の中で与野党でつくってきた、政治的慣習によるものです」
「日本の戦後を考えたとき、私は、自民党が与党であり続けてきた国会が本来果たすべき仕事をしてこなかったのに、民間・国民の努力と創意工夫で経済発展を遂げ、豊かさを蓄えてこられたのだと思っています。与党は公共事業や補助金の配分をコントロールすることが権力の源泉とされ、右肩上がりの時代には、それがうまく機能した面もあったでしょう。しかし、この20年以上、その蓄えを様々な分野で食いつぶしているのではないでしょうか。そして与党の政治家は、何か都合が悪くなったり批判を受けたりすると、官僚を悪者にする傾向を強めてきました」

ライシュ著『コモングッド』

ロバート・B・ライシュ著『コモングッド: 暴走する資本主義社会で倫理を語る』(2024年、東洋経済新報社)を読みました。考えさせられる本です。

著者が言う「コモングッド」は多義的に使われています。良識、共益、公共善の意味でです。著者は、アメリカ社会を支えていたこの良識が失われたことを嘆きます。資本主義の経済も、自由主義・民主主義の政治も、良識がなければひどいことになると指摘します。
規制の範囲内なら何でもやってしまう経営、いえ規制を破ってでも金儲けをする経営。政治も同様です。具体事例、行為者が描かれています。この本が書かれた2018年はトランプ大統領の時代で、彼の行動を批判した書として書かれたようです。

「勝つためなら何でもあり」の政治、「大もうけするためならなんでもあり」の経営、「経済を操るためなら何でもあり」の経済政策が、良き社会や良き経済を壊しました。
1984年と2016年を比較すると、一般家庭の純資産は14%減少しましたが、上位1000分の1の最富裕層が占有する富は、下位90%の人びとの富の総計とほぼ同じです。1972年から2016年の間に、アメリカ全体の経済規模はほぼ倍増しましたが、平均的勤労者の賃金は2%下落しました。所得増分のほとんどが、高所得層に向かったのです。2016年、金融業異界のボーナス総額は、法定最低賃金の7ドル25セントで働く正規雇用者330万人の年間所得総額を上回りました。
1940年代初頭に生まれたアメリカ人の9割は、働き盛りには両親よりも多く稼ぐことができましたが、1980年代半ばに生まれた人で働き盛りに両親より多くの収入を得ることができるのは5割です。(98ページ)「色あせる「アメリカン・ドリーム」

法や規制を破ることは論外としても、その範囲内で人を出し抜くことが続くと、市場経済も民主主義も劣化します。アダム・スミスも、『国富論』の前に『道徳感情論』を表し、共感(倫理)の重要性を指摘していました。
自由主義経済は個人の欲望を解放し、本人とともに社会を豊かにします。しかし野放しにしておくと、とんでもないことが起きるので、会社法や独占禁止法などの規制、他方で消費者を守る規制が必要です。
良識や倫理を捨てた経営や政治は短期的には利益をもたらすでしょうが、長期的には「弱肉強食」の世界になり、経済も市民社会も停滞することになります。

各国の憲法も、共感や倫理や良識が重要とは書いていませんが、それらを当然の前提としています。最低限の決まりを破った場合は刑法が適用されますが、倫理的行為と刑法との間には広い「空間」があります。政治にしろ経済にしろ、それを運用するには、一定の決まりが必要です。しかしそれだけでは不十分で、信頼などの社会共通資本が重要です。同じような民主主義、市場経済の制度を導入しても、国や地域によってその実態や成果には差が出ます。

そして特に政治家、国の指導者となる人には、これまでは高い倫理が求められたのですが。「気になる言葉

霞が関には期待できない

時々紹介している「自治体のツボ」。2月9日は「地方行政にしか期待できない」でした。詳しくは原文をお読みください。

・・・行政に関心があるのなら、中央省庁を分析すべきではないかと思わないこともない。だが、霞が関は期待できないと感覚的につかんでいる。優秀でユニークな官僚はたくさんいるが、ひとつの省庁の枠を超えられる人はほとんどいない。

省益を軽々と飛び越え、政治としっかり議論し、国民のニーズに即した政策を打ち出す。霞が関の住人はそれができない。省益に縛られ、政治には面従腹背、最大多数の国民とズレた政策を打つ。借金も減らせず、閉塞感を打破できない・・・

締め切りがないと進まない

総武線を往復する本と資料」の続きにもなります。
家と職場の机の上に、本と資料が溜まっています。読みたい、読まなければと思って取ってあるのですが、なかなかその時間が取れません。

時々、その「山崩し」をやります。
「おお、こんな資料もあったよな」「これは、読もうとしたんだ」と思い出しつつ、関心が薄れた資料は斜め読みして捨てます。本当はゆっくりと読みたいのですが。時には、連載やホームページを書くために取っておいた資料が見つかることがあります。

なぜ、資料は溜まって、整理されないか。それは、締め切りがないからです。原稿は締め切りが来るので、いやおうでも、書き上げなければなりません。追い込まれるのです。ホームページの記事は、毎日ほぼ2つを載せています。書きやすいのから載せるので、少しでも複雑な題材は後回しになります。反省。

『明るい公務員講座』で、仕事の進行管理と期日の決まらない仕事の進行管理を書きました。仕事なら追い込まれるのですが、そうでない「勉強」は、仕事のようにはいきませんね。