コメントライナー寄稿第21回

時事通信社「コメントライナー」への寄稿、第21回「現代日本特殊論」が1月30日に配信され、2月4日にはiJAMPにも転載されました。

私が大学生だった1970年代に、日本文化論が流行りました。私も、わくわくしながら読みました。中根千枝著「縦社会の人間関係」、土居健郎著「甘えの構造」、イザヤ・ベンダサン(山本七平さんとのことです)著「日本人とユダヤ人」、ポール・ボネ(仮名で、日本人らしい)著「不思議の国ニッポン」。もっといろいろありました。京都大学人文研の日本文化論や文化人類学も。角田忠信著「日本人の脳: 脳の働きと東西の文化」も入れておきましょう。
これらは、明治以来続く日本文化特殊論ですが、その後に、日本経済・日本型経営特殊論が流行りました。どちらも、日本は世界の中で優れているのだと、うれしくなりました。

ところが、平成時代になって、本屋から日本人論が消えてしまいました。日本人は変わっていないの。それは、日本特殊論は、日本が西欧に追いつく際の心の支えとして読まれていたからではないでしょうか。
「西欧に追いつけ」と努力する際に、「和魂洋才」を信じたかったのです。ところが、西欧に追いついたことで、日本特殊論を掲げる必要がなくなりました。他方でアジア各国が経済成長に成功し、西欧化の成功は日本独自のものではなくなりました。ここに日本特殊論は終わってしましました。

近年は、違った日本特殊論があるように思えます。
日本人の勉強熱心、長時間労働は大きく変わっていません。しかし、経済は一流から三流に転落しました。日本はやはり特殊な国です。ところが現代の日本特殊論は、本屋に並びません。新しい特殊論は元気が出ないからでしょう。

日本人論が日本人向けの消費財であり、時代によって変化してきたことは、指摘されています。青木保著「日本文化論の変容」(1990年、中央公論社)、船曳建夫著「「日本人論」再考」(2003年、NHK出版)。
しかしこれらは、日本人論が流行した時代を取り上げていて、その後に廃れたことは書かれていません。そこを指摘したかったのです。

AI時代の「達人の技」

1月13日の日経新聞経済教室、今井むつみ・慶応義塾大学教授の「AI時代に学ぶ「達人の技」」から。

・・・今の生成AIは、インターネット空間のテキスト情報を教科書として学習する。文法的に間違いない文を流ちょうに生成するという点では、人間を上回るようになったかもしれない。
人間は長い文を生成するときに主語が何かを途中で忘れてしまい、主語と目的語が一致しない文を作ったり、単語の選択をうっかり間違えたりしてしまうことが頻繁にある。
しかし、生成AIは大量の情報を並列に超高速で計算できる。記憶力も人間に比べれば無尽蔵と言ってよい。だから、今の生成AIはまず文法の間違いをしない。他言語への翻訳もたちどころにしてくれる・・・

・・・「カンマの女王『ニューヨーカー』校正係のここだけの話」という本を読んだ。米誌ニューヨーカーは米国の知識人が読む雑誌として名高い。洗練された英語に定評があり、文章は何重にもチェックされる。著者のメアリ・ノリス氏は同誌の最終的な文法チェックをする校正者だ。
ニューヨーカー誌には通常の文法の正しさの許容度より厳しい独自ルールがある。校正者はこのルールブックを頭にたたき込んでいて、ほとんどの場合、それを順守して文章を整える。
しかし一流の校正者の本領は、作家が規範を逸脱したときにどうするかの判断にある。ニューヨーカー誌に寄稿するのは並の作家ではない。もちろん一流の作家もうっかりミスをする。ミスなのか意図的な逸脱なのか。一流の作家がルールを逸脱したとき、校正者はその意味を考え抜く。そして逸脱したほうが作家の表現したい意味が伝わると判断すれば逸脱を許容する。
一流の達人があえてする逸脱を人は独創性と受け止め、その人の味と感じる。しかし逸脱が程度を過ぎれば誤りか理解不能と思われてしまう。独創性は、ギリギリの線での規範からの逸脱なのである。分野を問わず、ギリギリの線がどこかを直観的に見極められるのが本当の達人である。

認知科学では一流の達人と、普通の熟達者の行動や心の働きの違いが研究されてきた。普通の熟達者も仕事を早く正確にそつなくこなすことができる。両者を隔てるのは独自の味(スタイル)を確立しているかどうかである。ギリギリの線での逸脱を可能にするのは柔軟で臨機応変な判断力であり、それを支えるのは優れた直観である。
ここで、一流の達人とは「各分野に単一の基準で全員を比較した時にトップの人」ではないことを言っておきたい。一流の達人たちはそれぞれ異なる軸で規範から逸脱し、独創的である。だから、その分野には多様な達人の集積がある。そこに面白みも味も生まれるし、協同してプロジェクトを行う意味も出てくる・・・

旧態依然、日本の政治カレンダー

1月10日の日経新聞夕刊に「旧態依然、日本の政治カレンダー」が載っていました。詳しくは記事を読んでいただくとして。一部を紹介します。

・・・政府・与党は臨時国会をこなしながら12月に翌年度の予算案と税制改正大綱を決め1年が終わる。年後半のカレンダーも時代の要請に合っているのか検証の余地がある。
典型は税制改正だ。伝統的に議論を主導してきた自民党税制調査会は12月の大綱の決定に向けて10月ごろから稼働する。10〜12月にしか動かないのは党税調の権威付けとの見方があるものの、いわば季節労働で機動性を欠く。
その年に先送りされた税制項目は事実上、1年間塩漬けになる。23年の骨太の方針に明記した労働移動の円滑化に向けた退職金課税の見直しは2年連続で結論を持ち越した。旧来の終身雇用を前提とした税制が改善されない。
各国は適切なタイミングをみて柔軟に税制を変更する。例えば、シンガポール政府は不動産価格を調整するため、住宅不動産を購入する際の「追加印紙税」を変動させており、23年4月は深夜に発表し、翌日から施行した・・・

増山幹高・政策研究大学院大教授(政治学)に日本の政治サイクルの課題を聞いた。
・・・通常国会の会期を150日に定めているのは悪いことではない。一定期間で会期を終えた後、行政機関を国会審議に縛り付けることなく、国会議員は外交や他の活動に注力できる。通年国会にすべきだとの意見もあるが、会期を定めない国でも年中国会を開いているわけではない。

問題は国会を開いている期間をどう活用するかだ。これまでの国会は野党が与党の揚げ足をとることに注力していた。時間を浪費させることにエネルギーを使っていたといってもいい。
野党が与党に対峙し、どちらの政策がよいかを競う論戦になれば、おのずと議会のあり方は変わってくる。

党首討論のさらなる活用を提案したい。野党は一方的に質問できる予算委員会を選びがちだ。むしろ与野党の取り決めで党首討論の開催を制限している慣行を本来の規則通りに改めるべきだ。
予算委員会で予算と関連ない質疑を繰り返しているよりは、規則に沿って党首討論を開催して討論回数を増やすべきだ。少数野党に5分だけの討論時間を与えても十分な質疑にならない。会期中に党首討論を10回やるなら、その1回分を共産党にあてるなどの措置をとればいい。
石破茂首相は熟議の国会を訴える。日程闘争から距離を置くのが一番いい。少数与党の現状にあって、野党が責任政党に脱皮できる好機だ。予算審議の回数や採決日をあらかじめ決められれば、日本の国会歳時記は大きく変わるはずだ・・・

研修所学長の仕事

市町村職員中央研修所の運営3」の続きにもなります。
市町村職員中央研修所では、年間約400人の講師に来てもらっています。全員とお会いするのは無理なので、何人かの方と学長室で、ご挨拶をしてお礼を言うようにしています。著名な方にお礼を言うのはもちろんですが、霞が関の官僚や地方自治体の職員には、なるべく会うようにしています。

官僚の多くは、仕事の一環として来てくれます。もちろん、彼ら彼女らの仕事を自治体職員に知ってもらうよい機会ですし、現場の意見を聞く機会でもあります。とはいえ、忙しい中にほとんどが無料で来てくれるので、一声かけて、講義のコツなども伝授します。
自治体職員で講師に来てくれる人は、人前で話す経験を持っている方も多いのですが、そうでない人もいます。でも、研修生からは評価が高いのです。現場体験があること、また「同僚」「先輩」として話がわかりやすく、質問もしやすいのだそうです。

先日は「観光戦略」の研修で、クレイグ・モドさんが来てくれました。ニューヨークタイムズの「2023年に訪れるべき52の場所」で盛岡市を、2024年には山口市を、2025年には富山市を推薦してくださった方です。お礼を言っておきました。

それぞれの講師の講義も聴きたいのですが、それをしていると本業が進まないのです。