記録、復興庁設置の経過

先日、防災庁構想について話しました。記録のために、復興庁設置の経過を書いておきます。

当時(2011年夏)は、復興本部で被災者の支援と被災地の復興に向けた政策の立案と実行に追われていました。仮設住宅建設が完了したのが秋でした。続いて、流された町の復興計画を作っていました。
それと並行して、復興庁設置の作業をしていました。このような新しい役所をつくることは、近年では前例のないことです。
組織の内容は、復興本部を基礎として、発展させることとしました。法案は、法制班を作って作業をしてもらいました。担当の阪本克彦参事官(総務省行政管理局、現・内閣人事局人事政策統括官)が、職員たちと長時間労働をして、短期間でやり遂げてくれました。法制班は、このころ同時に3本の新法を作ったのです。驚異的でした。緊急を要する事情で、平時では想像しにくい「突貫工事」ができたのだと思います。

私は、法案決定過程で、当時野党の自民党幹部の了解取り付けに苦労しました。何人かの方が、復興庁が直接、復興事業を担うべきこと、そのための組織を抱えることを主張されたのです。何度も通って、そのような職員を集めることが困難なこと(国土交通省などから移籍してもらう必要があるが、国土交通省も人が余っているわけではないこと)、現地の事業を復興庁と国土交通省などとで切り分けることが複雑なことを理解してもらいました。
それらを含めて、4か月で法案を閣議決定しました。

2011年6月24日 東日本大震災復興基本法公布。復興庁の設置を決定
11月1日 復興庁設置法案閣議決定
12月9日 復興庁設置法成立
2011年12月16日 復興庁設置法公布
2012年2月10日 復興庁開庁

社員が増えると上司は仕事を変える

2月6日の日経新聞夕刊「私のリーダー論」、日高光啓に「他人に任せ、違い楽しむ」から。

ラッパー・音楽プロデューサーの日高光啓さんが2020年に設立した音楽事務所BMSG(東京・港)。着実な成長を重ね、「日本発の音楽を世界に広めたい」という日高さんの思いは一歩ずつ実現に向かって進んでいる。

――事業規模が大きくなると、トップとして目が届かない部分も出てくるのでは。
「社員は約80人まで増えました。24年4月からは『C×O(チーフ×オフィサー=各組織の最高責任者)』を配置し、経営と執行を分けています。会社が小さかったときは自分が全てを見ていて、何の仕事をどのタイミングで人に渡せばいいのかも分からなかった。社員から『もっと雑に仕事を渡してください』と言われてから、仕事を任せることができるようになりました。今では進捗報告で『こういう企画になっていたのか』と驚くこともあります」
「考えてみれば社長として5年目で、自分も日々成長しているんですね。最近は、どうしても社長である自分が会わなければならない場合など、自分がやるべき仕事に集中できています。そもそも自分の専門的な領域は意外と狭いと思っているんです。他人に仕事を任せた時に自分とは違う決断が出たとしても、違いを楽しめるところがある。自分では思いつかないような意見が出ることも多いので、面白いですね」

――会社の事業展開が軌道に乗ってきて、リーダーとしてなんらかの変化は感じていますか。
「企業としての『成長痛』は社員が10人から20人に増えるときの方が大きかったんですよ。社員10人の時は『BMSG=日高』で、僕の考えていることが100%、BMSGと一致していた。でも20人になると組織になる。そうするとルールができる。手続きが必要になる」
「今までは同僚だったのに、上司と部下という人間関係に変われば感情面でも色々とあります。僕自身に対する不平不満もたまってくるだろうし、毎日が今まで経験したことのない変化でめまぐるしかった」
「その経験から、特に何かをスタートさせるときは、ルールは走りながらつくるようにと心がけています。立ち上がったばかりのアーティストにもよく言っていますが、メンバーやスタッフも含めて、最初からルールやマナーをしっかり決めてからスタートするなんて無理。とりあえずは走ってみて、小さな失敗でも繰り返しながら決めていけばいいと思っています」

連載「公共を創る」第214回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第214回「政府の役割の再定義ー成熟社会にふさわしい政策への大転換」が、発行されました。

政治家が行うべきですが十分になされていないことの一つとして、政策の大転換を取り上げています。
憲法が改正されていないことも、政策の大転換が十分に行われていないことの、一つの表れでしょう。日本国憲法は1946年に公布され、その後80年近く改正されたことがありません。世界の成文憲法の中で、改正されていないものとして最も古いものとなりました。第2次世界大戦が終わった45年から2022年までに、米国は6回、フランスは27回、ドイツは67回、中国は10回、韓国は9回の憲法改正(新憲法制定を含む)を行っています。
近年に改正された各国の憲法は、環境保護、情報公開、プライバシー保護などの新しい人権の規定を盛り込んでいます。日本も事情は同じと考えられますが、これらについて、憲法改正の動きは見られません。

他方で、条文をかなり強引に解釈している実態もあります。社会の変化に憲法が追い付いていないのです。憲法第89条は、「公の支配に属しない教育」への公金支出を禁じていますが、「公の支配に属さない」私立学校の国庫補助が続いています。
また、憲法第24条第1項では「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」すると定め
ています。これに関して、同性婚を認めていない民法などの規定は憲法違反だと訴訟が起こされ、多くの判決は違憲としています。しかし条文を読んでいると、無理があるような気がします。憲法制定時は同性婚を想定しておらず、「両性」と規定したのでしょう。

歴代内閣は政策課題への取り組みを怠っているのでなく、懸命に取り組み、新しい取り組みも次々と打ち出しています。では、なぜそれが効果を上げているようにみえないのでしょうか。どのように変えれば、政策の大転換が進むのでしょうか。そのためには、「課題と政策の整理」と「解決への取り組み手法」を明らかにし、それを評価し変えていくことが必要でした。内閣は、それを怠ってきたのではないかと考えられます。
各府省は、それぞれ多くの政策群を抱えています。それらを実行しつつ、首相の示す「重点」「転換」に取り組むことになります。官僚機構は、与えられた方向でそれぞれの分野での政策を考え、実施することは得意です。しかし、各組織間、各政策間での優先順位付けはできず、政策の大転換もできません。

近年の「官邸主導」も問題です。首相が取り組む重点を絞っていないこと、首相官邸の官僚が各省の活動に口を挟むことから、逆に各省の大臣と官僚がその政策分野においての優先順位の判断ができず、さらには政策を考えなくなっていま。官邸と各省との分担が明示されていない官邸主導は、弊害が多いのです。
首相には、重要課題に集中してほしいのです。首相がいかに忙しいか、首相に考える時間を確保することも首相秘書官の役割であることを、私の経験を交えて説明しました。

日本独自のメンタルクリニック

東京大学出版会の宣伝誌『UP』2月号に、下山晴彦・東大名誉教授の「”変なタイトル”の本の出版と、その背景―「心理職」国家資格化の顛末」が載っています。心理職が、相応の評価と待遇を受けていないことを紹介しておられます。

・・・皆様は、1990年代以降、都市部を中心に「メンタルクリニック」(精神科や心療内科)が急増していることにお気づきだろうか。「メンタルクリニック」は和製英語であり、精神科診療所としては世界でも類を見ない形態の、日本独特の医療機関である。心身の不調から日常的な悩みまで「メンタル」を巡るさまざまな問題が持ち込まれ、診断や治療がなされ、患者はメンタルクリニックへの接近と離反を繰り返す。
米国では、心の悩みの相談に行く専門機関は、通常、専門の「サイコロジスト」である心理職のオフィスである。それに対して日本では、「生きづらさ」を抱えた人びとが、コンビニのように街角にある「メンタルクリニック」、つまり医療機関に吸い寄せられていく。そのような人びとの中には、薬物療法が必要でない「悩みごと」を持った人たちもいる。そのような人にも診断名がつき、「患者」となり、薬物療法がされることもある。「メンタルクリニック」に勤務する心理職は、”医師の指示の下で”そのような「患者」を担当になることが多い。

全てがそうというわけではないが、多くの「メンタルクリニック」では、「生きづらさ」や「悩みごと」を病気(疾患)として治療する「医療化」が起きている。これは、日々の生活の中で生じる苦悩や困り事といった個人的問題に対して誰が相談に乗るのか、つまりどのような職業が管轄するかといういわば”管轄権”の問題と関わっている。
19世紀半ばまでは聖職者が”管轄権”を有していたが、近代化とともに相談による需要が高まったことで聖職者に代わる職業が求められることなった。米国などの欧米諸国では、心理的苦悩の相談を担当する管轄権を有しているのが心理職である。それに対して日本ではそれが「メンタルクリニック」、つまり医療になっているということである。日本では、他国とことなり、苦悩についての相談までもが「医療職」が管轄権を持つようになっている・・・

ウクライナ政府幹部講義3

今日2月26日は、ウクライナ政府幹部に講義をしてきました。国際協力機構(JICA)が、日本に呼んでいます。復興に向けた準備をするためです。今回で3回目です。「ウクライナ代表団への講義2

私の講義は、東日本大震災からの復興です。戦争で壊された町、また一時的に避難してから戻る町もあります。そこで、津波被災地と原発事故被災地の両方を説明しました。
言葉で伝えるより、写真がわかりやすいです。

マリナ・デニシウク地方・国土発展省次官をはじめ、13人の高官が参加してくださいました。マリナ次官が、次々と鋭い質問をされました。それに答えることで、理解が深まったと思います。