30年間で縮んだ日本経済

何回か紹介している「自治体のツボ」。1月17日は阪神淡路大震災から30年なので、その間の経済指標の変化を取り上げていました。1995年と2023年の比較です。「阪神淡路大震災30年③縮小した経済
いろんなことが見えてきます。わかりやすいので、見てください。ここでは、そのいくつかを紹介します。順序は入れ替えてあります。

総人口(1億2557万人→1億2435万人)
労働力人口(6702万人→6925万人)
出生数(118万人→72万人)

名目GDP(521兆円→591兆円)
1人当たり名目GDP世界順位(3位→32位)
円ドルレート(94円→152円)

年度末政府債務残高(212兆円→1286兆円)
地方公務員数(328万人→280万人)
公共事業関係費(14.2兆円→6.1兆円)

住宅着工件数(147万戸→81.9万戸)
訪日外国人(335万人→2506万人)
輸出総額(41.5兆円→100兆円)
刑法犯認知件数(176万件→70万件)

秘密の酒蔵

我が家の1階に、床下収納があります。家を建てたときに、工務店が「あると便利ですよ」と、つけてくれました。最初は入れる物を思いつかず、放置してありました。

あるときに、ひらめきました。「そうだ、お酒を入れれば良いのだ」と。冬だけでなく、夏もけっこう涼しいのです。
冷蔵庫で冷やすほどでないものや、入りきらないものを、入れるようになりました。

晩酌の際には、蓋(床板)を開けて、取り出します。私にとって、至福の一瞬です(安いなあ)。
秘密でも何でもないのですが。

大局観失う報道機関2

1月14日の朝日新聞ウエッブ、砂原庸介・神戸大学教授の「「正しいこと」が難しい、大局観失うメディア 選挙で一喜一憂しない」の続きです。

―最近の政治や選挙に民主主義の危機を感じることは?

もちろん、あります。
民主主義の基盤として「他者への信頼」のようなものが重要です。他者への信頼を損なうかたちで意思決定が行われていくと、長い目でみれば民主主義を壊す可能性がある。
斎藤氏を支持したとされる立花孝志氏の手法にはその危険性があると思うし、選挙の勝者である知事がその関係についてあいまいなままにしておく判断が望ましいようには思えません。
でも、選挙だけが信頼を壊す原因ではない。マスメディアがやってきたことも含め、社会の基盤が徐々に損なわれていって、それを再構築するのが難しくなっていると感じます。

―「正しいことをする」が難しくなっている?

他の国と比べると、日本社会で少なくとも、ひとりひとりが自分の持ち場で「Right thing」を行おうとすることは、私はまだ維持されているように思います。
でも、他人の正しい行動にただ乗りするような行動が目立つようになると、「正しいことをすると損する」というように思う感覚が強まりかねない。それは望ましいことではありません。みんながそれなりに正しいことをしていることを前提に、自分だけ好きなことをしてメリットを得る人が目立つと、前提の方が揺らいでしまう。
「Do the right thing」は、一般の人よりも、責任と一定の権限を持っている人や集団ほど重要で、なぜそれが正しいのか、説明する責任があります。
その説明は、「唯一の正解」でなくても良いはずです。それぞれが正しいと考えていることを行ったり、説明したりしたうえで、定期的に社会として正しいとされることが行われているかを検証する。その機会が選挙であったり、メディアの相互検証だったりするのです。

難しくなっていると感じるのは、インターネットなどで主張が「言いっぱなし」になる、つまり適切な検証が行われなかったり、検証されてもそれが広く共有されなかったりしやすくなっていることがあります。
同時に、ひとたび検証が必要だとなると、「唯一の正解」が出るまで延々と説明を求めることも問題だと思います。実際そんなものがあるわけではないので、なるべく説明をしないでやり過ごそうと考える人も出てきます。
「正しいこと」には一定の幅があって、人によって異なる判断はありうるわけですが、そういうあいまいさを含む「正しさ」を維持するのが難しくなってきたように感じます。それが、民主主義の基盤を損なうことにつながっているのではないでしょうか。

――選挙結果を報道したり、分析したり、それをどうそれぞれが受け止めるのか。必要なこととは?

メディアの人もそうですが、一部の人が政治を好きすぎる、つまり政治に期待しすぎているのではないでしょうか。もちろん政治は人々の期待に応えて動くべきですが、それは誰か特定の個人の期待に応えるということにはなりにくい。
民主主義は、みなで決めることなので、少しずつしか変わっていかない。なので、一喜一憂するスタンスは、私は良くないと考えています。
トランプ次期米大統領が再選を果たした時、絶望的だと悲嘆する人も少なくなかったようですが、自分が投票した候補が負けたことで全てを失うわけではない。そんな熱量だと、報道のボルテージも上がる。変な盛り上がり方もする。
ポピュリズムの脅威を甘くみるのは良くない、という考え方は分からなくもない。ですが、自分と異なる投票行動を持った人たちはみな一枚岩ではないことを前提に冷静に結果を受け取る。そして日常では、それぞれが「Do the right thing」を心のどこかに留めることが大切なのではないでしょうか。
メディアは、SNS社会を背景とした分断がある時代だからこそ、期間中と結果で盛り上げるばかりではなく、普段からの政治報道こそ、きちんと考えるべきだと思いますし、個人的にはそれに期待したいです。

職員研修の変化

市町村職員中央研修所(市町村アカデミー)の業務は、市町村職員への研修の提供であり、研修を通じた職員の能力向上です。
1 分野は、大きく分けると次のようになっています。
・実務の基礎(法令実務、課税徴収、福祉行政など)
・政策(まちづくり、少子高齢化、文化、産業など)
・新しい課題(電子化、ハラスメント対策、働き方改革など)
・管理職養成

地域の課題の変化と職場の変化に応じて、これらの内容も変化してきています。例えば管理職研修でも、部下の心の健康などが重要になってきました。

2 授業の方法も、変わってきました。
かつて研修と言えば、講師が話をして、研修生がそれを学ぶ手法が主流でした。そのような講義もありますが、「教える」ということだけでなく、「育てる」ことに重点が移ってきました。
すなわち、課題演習や討論の時間を増やしてきたのです。聞くという受け身から、考えて発言するという参加型への変化です。机の配置も、みんなが講師の方を向く教室型でなく、研修生同士が向かい合う島形になります。

3 講師の話を聞くだけなら、全国から千葉に集まる必要はなく、オンライン授業でもできます。しかし、班別討議など参加型の研修は、オンラインでは効果が上がりません。同じような悩みを持った職員が集まって、意見を交換する。そのことに大きな意義があります。
市町村職員は意外と、他自治体の職員との交流は少ないのです。

3 そして、授業時間以外にも意見交換をして、知人や友人をつくる。これが、大きな財産になります。

大局観失う報道機関

1月14日の朝日新聞ウエッブ、砂原庸介・神戸大学教授の「「正しいこと」が難しい、大局観失うメディア 選挙で一喜一憂しない」から。詳しくは記事をお読みください。

2024年、私たちは国内外の数多くの選挙結果と向き合った。SNSの影響が広がり、分断が進んだと言われる時代に、選挙結果と向き合う時に大切なこととは――。日本の政治・行政が専門の神戸大学教授・砂原庸介さんは、「あいまいな『正しさ』を維持することが難しい時代になった」と指摘する。どういうことか、聞いた。

――24年は選挙イヤーでした。何を思いましたか?

選挙結果には、一喜一憂はしない方がいいのではないか、と感じました。
私は兵庫県民なので、兵庫県知事選挙は有権者でもありました。斎藤元彦氏が再選という結果に対して、「こんなはずではなかった」「SNSに有権者が洗脳された」「民主主義の危機だ」という論調をしばしば目にしました。
でも、私はこういう反応には懐疑的です。
もとはといえば、5~8月までメディアが騒いでいたのが原因で、その後、不信任決議をして選挙になった文脈が抜け落ちているのではないでしょうか。いち県民としても、いち研究者としても、「やらなくてもよかった選挙」「メディアが作った選挙」という要素が大きかったと感じてしまいます。

――メディアが騒いで作った、と?

亡くなった職員の方がいることや、公益通報をどう取り扱うのかは非常に大きな問題です。管理者としての道義的責任を問う議論はあり得ます。ただ、それらの出来事について個々に責任を問うべきか、には疑問があります。知事の姿勢が問われるとしても、4年に1度、つまり、来年の任期で政治的な責任を問うべき話だったように思います。
また、仮に責任を追及して知事を辞めさせるとしても、公益通報をめぐる調査結果もまだ出ていなかった。色々な証拠を吟味したうえで、みんなが納得できる形で「悪い」なら、辞めさせるのが良かったのだと思います。でも確たる証拠も挙がっていないうちから、「おねだり」報道などを発信し続け、「県民にとって、この知事は悪い」という雰囲気を作ったのはメディアだと思います。
不信任決議案を提出して可決したのは議会。もちろん議会にはその責任はあります。でもメディアが作り出したそうした雰囲気がなければ、不信任決議案が出ていたでしょうか。

なぜこの選挙をしなければならないのか? 正直、多くの有権者にとってわからないままこの選挙になったと思います。
メディアの人たちは、知事が辞める前の報道のことを、どう考えているのでしょうか。「視聴率がとれたから」「よく読まれるから」。こういった理由で大量に報道したのだろうと想像できますが、これはメディア自身が丁寧に検証すべきでしょう。
なのに、そうした検証や反省もないうちに、選挙結果が出ると「報道には選挙期間中の制約があり、SNSでの発信には制約はない。何か対策を、選挙報道を考えなければ」と嘆いてみせる。正直なところ、何かズレているのではないかと思いました。