民主党政権の失敗

日経新聞「私の履歴書」ジェラルド・カーティスさん、26日の「民主党の興亡」から。

・・・政権交代が視野に入った09年の衆院選前、私は鳩山氏に3点アドバイスをした。第1に普天間基地に関し拙速な判断は避けること。第2に米国を含まず反米に映りうる「東アジア共同体」に肩入れしすぎないこと。第3に官僚機構をうまく活用する戦略を描き、決して彼らを敵として扱わないこと、の3つだ。
だが首相に就いた彼は逆のことをした。普天間基地の県外移設を唱え、東アジア共同体を支持し、官僚機構を排除した。今年6月に会った彼は「先生の言うことをもっと聴けばよかったな」と話した・・・

・・・結局、鳩山政権は9カ月足らずで終わり、菅直人氏が後を継いだ。
菅氏のことは1970年代、彼が婦人運動家の市川房枝氏の参院選挙を手伝っている時から知っていた。
やはり民主党政権の発足直前に会い、米国よりも同じ議院内閣制の英国のほうが政策決定の参考になるので、見てはどうかと勧めた。
これに彼は興味をもち、ロンドンを訪れてブラウン首相らに会った。だが結局、民主党が官僚制度をうまく動かして政策を実現する方法を学ぶことはなかった。むしろ官僚の排除によって政策は混乱した。これが同党をつまずかせる大きな要因になった・・・

令和6年の回顧1、仕事

年末になったので、今年も1年の回顧を始めましょう。第1回は、仕事についてです。

市町村アカデミー学長は、3年余りが経ちました。
研修は、職員たちの努力で順調に実施されています。年間に約80本の研修を行い、5千人の研修生を受け入れることは、なかなか大変です。
社会の変化や研修生の要望に応じて、内容を入れ替えたり講師を変更したり、常に見直しをしています。そのおかげもあって、研修生からの評判も良好です。
今年は、研修動画の配信を始めました。

所内でも無線LANを強化し、会議も紙をなくしました。研修業務の管理や、自治体・研修生とのやりとりを行う電子システムを、入れ替えました。これも、職員たちが業者と苦労を重ねて、進めてくれました。
研修申し込みがインターネットでできるだけでなく、研修生へ配付する資料も電子化します。紙に印刷する手間が省け、研修生も重たい資料を持って帰る必要がありません。もちろん、紙で見たい人は印刷できます。

そのほか、組織管理の充実強化などにも、取り組んでいます。これらは、副学長を中心に、職員に分担してもらい、計画を立てて進めています。
それぞれ課題は生じますが、進んでいます。ありがたいことです。私は、「良いと思ったことは、少々お金がかかっても変えよう」と旗を振っているだけです。

社会党の終焉

日経新聞「私の履歴書」、12月はジェラルド・カーティスさんです。25日の「社会党の人々」に、次のような話が書かれています。

江田三郎・社会党書記長が、1962年に「江田ビション」を発表しました。米国並みの生活水準、ソビエト並みの福祉、英国の議会制民主主義と日本の平和憲法を組み合わせた、国の将来像を唱えました。しかし、社会党左派は江田氏を攻撃し、書記長から引きずり下ろします。

・・・65年前、ドイツ社民党がマルクス主義と決別した時、逆に左に振れたのが致命的だった。長い歴史をもつ日本の社会主義運動には、そうして終止符が打たれた・・・

同時の関係者は、どのように自らの行動を説明するのでしょうか。

年賀状書き終了

年賀状を書き終え、今日、最後の分を投函しました。
今年も総量削減をして、枚数を減らしました。おかげで、さほどの労働ではありませんでした。すみません、毎年たくさんいただいていながら、私から出さなくて。
千枚を超えていた頃は、本当に大変でした。キョーコさんや秘書に、手伝ってもらうこともありました。仕事の延長のような意味もあったのです。

知人には、年賀状じまいを連絡してくる人もいます。そもそも出さないという人もいます。一つの考えですね。
私の場合は、かつてお世話になった人への「定期連絡」の意味が多いです。
なので、宛名を手書きにして、裏書きに1行ほど言葉を添えるようにしています。
年に一度の、ペン習字の時間です。

さて、明日から連休です。少しはゆっくりできますかね。いや、冬休みの宿題をたくさん抱えていました。

路上生活の難民

朝日新聞夕刊「現場へ!」、12月9日の週は「ホームレス難民」でした。
第1回の記事には、「母国を逃れた難民申請者たちへの支援や法制度は、他国と比べて非常に貧弱だと指摘される。昨年以降は、支援を受けられない人々が、路上生活になる姿も目立つ。申請者の現状を探った」とあります。

・・・着のみ着のまま、段ボールやベンチの上に横たわる。雨露を防ぐものは、何もない。
11月中旬、風が冷たくなった東京都心の公園で、7~8人の難民申請者が、寒さに耐えながら野宿をしていた。
今秋来日した、アフリカ出身の20代の妊婦サラさん(仮名)も、厳しい路上生活を経験した。30代の夫ラシッドさん(仮名)とともに、取材に応じてくれた。

(母国を出て)それから約2年間、近隣諸国や東南アジアを転々とした。そして、「人権を尊重する国」と聞いた日本にビザを申請し、一時滞在の許可を得て東京にたどり着いた。だが、日本では難民申請者が住居や食事などの公的支援をすぐに受けられるケースは、ほとんどない。
夫妻は一時期、都内の公園で寝起きする生活を余儀なくされた。妊娠していたサラさんは10日間ほど、ラシッドさんはおよそ1カ月。ラシッドさんは「妻はどんどん弱っていった。でも、どうしたらいいかわからなかった」。
夜中は想像以上に寒さが厳しく、眠れない。「食べ物もないから、長い時間ゴミ箱をあさり、食べられるものを探した。なかなか手に入らなかった」とラシッドさん。サラさんも語る。「体調がどんどん悪くなり、何度も倒れそうになった。とにかく、おなかにいる子の命のために生き延びなければ、とだけ思っていました」。語りながらあふれてきた涙を、布でぬぐった・・・

福祉国家日本で、こんなことが起きているのですね。
非営利団体が支援をしているようですが、十分に手が行き届いていません。