11月13日の関西学院大学シンポジウム「霞ヶ関は今」、黒江哲郎・元防衛次官の講演で、印象に残ったことがあります。私の受け止めであって、黒江次官の発言を正確に引用しているわけではありません。
1 自衛隊が1954年に発足して、今年で70年です。黒江次官の説明では、その半分35年の折り返しは、1989年です。この年はベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が事実上終わった年です。これは、私にとって大いにびっくりでした。それから35年も経っているということです。
私が自治大臣秘書官の時に、竹内行夫総理秘書官(後の外務次官、最高裁判事)から「全勝君は、戦後の日本を二つに分けるとしたら、いつと思うか」と質問されて、「そりゃ、1973年の石油危機でしょう。ここで日本の高度成長が終わったのですから」と答えました。竹内先輩は「そうか、僕にとっては60年安保だよ」と言って、その趣旨を説明してくださいました。この話は、連載「公共を創る」第184回に書きました。
自衛隊70年は戦後79年とは異なりますが、戦後の日本の歩みを考える際の一つの物差しとなります。
2 もう一つは、黒江次官が防衛庁に入った頃は、所管法令が3つだけだったそうです。防衛庁設置法、自衛隊法、給与法です。組織法しかなかったのです。
これは、自衛隊の置かれた状況を反映しています。一言で言うと、自衛隊は「動かない組織」「動けない組織」だったのです。外交安全保障で何か事件が起きても、防衛庁・自衛隊の出番はありませんでした。
ソ連が崩壊し、東西冷戦が終わりました。世界に平和が訪れたら良かったのですが、重しがなくなった世界は、各地で紛争が勃発するようになりました。さらに軍隊ではないテロが頻発するようになりました。日本も「一国平和主義」を続けることができなくなり、世界の平和維持に責任を担わなければならなくなりました。
防衛庁・自衛隊に出番が回ってきたのです。この劇的な変化は、黒江次官の著書『防衛事務次官冷や汗日記』に赤裸々に書かれています。そして、防衛庁は防衛省になり、所管法令(作用法)が激増します。「防衛省所管法令」特に有事法制です。
日本の経済や政治行政にとっては「失われた30年」と総括されますが、安全保障については、「転換の30年」でした。このことは、拙稿「Crisis Management」(『Public Administration in Japan』所収)でも書きました。