世界は信頼できない、自分に閉じこもり快楽を求める

10月4日の朝日新聞オピニオン欄「壊れやすい日常」、呉勝浩さんの「怒りの沸点下げる、不信感」から

・・・たいていのことでは自分の日常は変わらない。仮に影響を受けるようなことが起きたとしても、結局それに対して自分が何かできるわけでもない。そんな感覚が根強いように感じます。
コンビニで弁当の値段が上がったとしても、SNSに文句を書き込んで「いいね」が集まってそれで終わり。抗議などの行動に出ることなく、値上げされた弁当を買うしかないのが普通の人の現実でしょう。

なぜそんなふうに日常が強固になっているのか。「この世界は信頼できる場所だ」という実感を持てなくなっているからではないかと僕は考えます。
言葉があまりにも軽々しく使われ、詭弁を垂れ流す「インフルエンサー」がもてはやされる。弱い者が強い者に抵抗するためにあるはずの法律やルールを、強い者が批判をかわすために悪用する。しかるべき人間が責任を取らない。
そんな社会では、自分の日常に閉じこもるしかないのではないでしょうか。

一方で、日常というのは退屈でつまらないものです。そうなると人間は快楽を求める。完全に清廉潔白な組織や個人など存在するはずもないのに、なにか落ち度があると激しく攻撃する風潮もその一つです。その矛先はいつ自分に向かうかもしれず、社会への不信感はさらに増幅していく。
こうした負の連鎖を断ち切り、「この世界は信頼できる」という実感をどう取り戻すのかはとても難しい課題だと思います。原因がたくさんありすぎますからね。それでも僕にいま言えるいちばん簡単な処方箋は「人をバカにするのはやめよう」ということです。
傷つきたくないという気分が非常に強まっているのを感じます。バカにされた側の怒りの沸点は、想像以上に低いかもしれない。これは本当に怖いことで、取り返しのつかないことが起きかねません・・・