連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第202回「政府の役割の再定義ー官僚主導の限界と国民意識の転換」が、発行されました。かつての「官僚主導」がなぜ成り立ったのか、何が問題だったのか、そしてなぜそれが行き詰まったのかを説明しています。
官僚主導が存続したのは、冷戦下の一国平和主義と経済成長が続き、政治的決断の必要がないという前提があったためです。その前提が終焉を迎えると、官僚主導の限界が露呈しました。
1989年にベルリンの壁が壊れ、1991年にはソ連が崩壊し東西対立が終わりました。それで世界に平和が訪れればよかったのですが、重しの取れた世界は、逆に不安定になりました。地域での紛争が続出し、日本もまたそれに巻き込まれることになります。米軍の保護の下で平和を謳歌するという一国平和主義が、続けられなくなったのです。国内では経済成長が終わり、政府も増えてくる社会の富を分配だけしているわけにはいかなくなりました。あらゆる分野や地域に資源を投入することは、もうできません。
国際環境の変化と経済成長の鈍化で、従来の日本の路線が行き詰まってきたことが明らかになり、国民の間にも、「変えなければ」という意識が広がりました。
国民の意識は、まず自民党政権への不満という形で現われました。1993年には、細川護熙首相を担いだ8党・会派によって、非自民政権が誕生しました。長期にわたって続いた自民党政権が、ついに交代したのです。次に政策の企画などについて十分に役割を果たせなくなった官僚に対して、その幹部が過度で破廉恥ともいうべき接待や賄賂を受けていたこと、そして逮捕者が出たことなどもあって、不満が爆発ました。
このような時代背景や国民意識の高まりから、1990年代に、これまでにない改革が進みました。一つは地方分権改革であり、もう一つが中央省庁改革です。いずれも、昭和の頃から抜本的な改革を行うべきだと口にはされてきていましたが、ほとんどの人が「できっこない」と思い込み、実際に政府が具体的に手を着けることはなかった課題だったのです