9月28日の朝日新聞夕刊、社会福祉士・横山北斗さんの「社会保障制度、迷わず使うために」「知らないのは罪ですか?―申請主義の壁―」から。
・・・コロナ禍による経済的困窮者が増えていた2020年12月。厚生労働省がツイッター(現X)に投稿した内容が話題になりました。
《生活保護の申請は国民の権利です。生活保護を必要とする可能性はどなたにもあるものですので、ためらわずにご相談ください。》
SNS上で肯定的な受け止めが多かったのですが、裏を返せば、それほどまでに私たちの権利意識が希薄であるということかもしれません。それはつまり、社会保障制度に対し「お上からの施し」的な受け止めや、利用を我慢することにつながります。社会保障制度を名実ともにセーフティーネットにするためには、私たちがそれを行使することが当たり前だと認識している状況に社会を変えていくことが必要です・・・
・・・私たちの生存権(憲法25条「健康で文化的な最低限度の生活」)を実現するために社会保障制度は整備されてきました。ですが、その利用は自力で制度の情報を収集・選択し、物理的・能力的に申請手続きが可能であることを前提としているため、それを自力で行うことが難しい人たちが排除され、より困った状況に陥ったり、生活・生命の危機に瀕したりする可能性があります・・・
・・・申請プロセスでの障壁や、制度の利用が権利であるという意識の希薄さ、国や自治体が行う施策の乏しさが、生存権の実現という社会保障制度の目的を果たすことを難しくさせています。
こうした矛盾はどのように生じたのか。歴史をひもといてみます。
1946年制定の旧生活保護法では生活保護を申請する権利は認められておらず、市町村長が必要だと認めた場合にのみ利用できました。それでは憲法25条の精神に反するとして、50年制定の新たな生活保護法に保護請求権が盛り込まれました。生活保護は原則、本人の申請で開始され、家族や同居の親族にも申請が認められるようになったのです。
生活保護以外の社会保障制度(障害者福祉、児童福祉、高齢者福祉など)は戦後長く、行政が職権で必要性を判断し、サービスの種類・提供機関を決定する仕組み(措置制度)で提供され、自由にサービスを選ぶことができませんでした。
90年代の構造改革を経て、措置制度から契約制度へと移行が進みました。利用者は制度やサービスを選択し、それを提供する事業者との間で契約を交わす形で、申請を前提に提供されるようになりました。2000年の介護保険制度開始に伴う介護サービスの提供、さらに障害福祉サービスと続きました。
申請する権利を得た社会は、制度やサービスを自ら調べ、理解し、選択し、申請をするというプロセスを一般化させました。結果、社会保障制度はそのアクセスに障壁を生じさせ、国民の生存権保障という目的を果たすことが困難になるという自己矛盾を抱えることになりました。
解消するには、申請する権利の行使をサポートする施策を、社会に網の目のように張り巡らせること、私たちが権利意識を高めることが必要です。後者については例えば、義務教育など人生における早い時期に、社会保障制度の利用が権利であることを学び、私たちをサポートする制度についても知る機会が不可欠だと考えます。
学校に当たり前のように通ってきた人は、自分が教育を受ける権利を行使してきたことを強く認識することはないでしょう。それが日常的で、当たり前のものだと感じているからです。社会保障制度の利用も、そのような未来をたぐり寄せることができるでしょうか・・・