朝日新聞夕刊連載「現場へ」、6月17日から21日は、藤田直央・編集委員による「「公的な私文書」を生かす」でした。
・・・遺品を片づけていると、段ボール箱に文書がどっさり。とりわけ首相経験者や側近の遺族には悩ましい問題だ。戦後を見つめ直す上で第一級の史料があるかもしれないが、どう扱えばいいのか。
政府の文書ではない、そんな文書を私は「公的な私文書」と呼び、中身を報じてきた・・・
詳しくは連載記事を読んでいただくとして。政治家の日記などは、誰と会っていたのか、どのような話をしていたのか、どのような情報源からどのような情報を得ていたか、どのように判断したのかなど、政治と行政に関わる記録が残っているでしょう。それは、研究者にとっては重要な資料になります。
ところが残った日記や残した資料は、そのままでは扱いに困ります。私生活に関わることなど公務に関係ないことも書かれているでしょう。そして思い違いや、自分に都合のよいことだけが書かれていることもあるでしょう。そのままでは、公文書としては扱えないのです。「公的な私文書」なのか「私的な公文書」なのでしょうか。
保管するとしても、国立公文書館も困るでしょうね。公開するとしても、どのようにするのか。課題はたくさんあるようです。
かつてコメントライナーに、公文書と行政文書との違いを、「「行政文書」は正確か」で書きました。でも、この2つは、行政機関が扱った文書です。個人の私的な記録とは異なります。それをも勘案すると、大まかには次のように分類できるのではないでしょうか。そして、それぞれに扱いを変える必要があります。
「かつての公文書」=役所において決裁を受けて正確性が担保されている文書
「行政文書」=行政関係の文書であるが、中には職員のメモなどもあり、すべてが正確とは言えない
「公的な私文書」=行政に関することも含まれているが、個人が保管している文書。私生活に関すことなど、行政に関係しない内容や不確かな内容も含まれている。どの範囲内を対象とするかも不明。