和訳されなかった仏典

仏教は日本で庶民に広まりましたが、仏典は読まれることなく、僧侶が独占しました。インドで生まれた仏教は、中国で漢訳されたのですが、日本語には翻訳されませんでした。「ヲコト点」などによって、訓読することは行われていたようですが。
庶民は、「はんにゃはらみた~」「なんまんだぶ」と、意味が分からないままお経を唱え、僧侶の説法と絵解きなどで教えを理解しました。
漢訳でも意訳しきれず、音を宛てた単語もあります。それと同じで、意味が分からなくても唱えることで、ありがたみがあるとしていたのでしょう。

他方でキリスト教は、ヘブライ語から、ギリシャ語にそしてラテン語に翻訳されました。これも中世ヨーロッパの庶民には理解できず、司祭たちが独占しました。教会のステンドグラスは、文字の読めない庶民に絵解きをするための、画像でした。
それに反抗して、ルターがドイツ語に訳し、ほかの言語にも訳されることで、庶民が読めなくても理解できるようになりました。聖書は、世界で一番多く出版された本といわれています。かつては(今もかな)、ホテルに泊まると部屋に聖書がありました。

また、キリスト教徒が少ない日本でも、旧約聖書や新約聖書の断片は出版物に引用されることで、「汝の敵を愛せよ」など日常語にも「聖書の言葉」として知られています。しかし、仏典の用語は、僧侶以外はほとんど知らないのではないでしょうか。
宗教関係者が自らの地位を確保するためもあって、庶民には分からない書物・書き言葉を独占します。それを続けるのか、庶民にも分かるようにして理解者を広げるのか。「販売戦略」の違いでしょうか。

仏典はどう漢訳されたのか』(2013年、岩波書店)を読んで、このホームページでも紹介したはずなのですが、見つかりません。