仕事の進め方、市町村アカデミー

市町村アカデミーでの仕事についてです。
昨年から、運営に関して新しく大きな仕事を始めました。専門家を交えて、1年間の検討の結果です。仕事を増やしたのは私なのですが。これについては、紹介する機会もあるでしょう。

この仕事は方針を決めてあるので、担当者たちに任せておけばよいのです。とはいえ、気になるので、時々状況を聞きに行っていました。すると、職員が定期的に報告してくれるようになりました。さらに、それを様式にして、日を決めて電子メールで送ってくれるようになりました。ありがたいですね、効率化を考えてくれるのは。

もう一つは、先日書いた動画配信です。「まずは試行してみよう」と言ったのは私ですが。誰を対象に、どのような内容にするか、見ることができる範囲はどうするか、その仕組みはどうするかなど、いろいろ課題はあるのですが、それを解決してくれました。
で、私に「出演しろ」と要求してきました。断るわけにはいきませんね。

市町村アカデミーの任務は、市町村職員への高度な研修の実施です。それは変わりません。「百年一日の研修をしているのだろう」と思われる方もおられるかもしれませんが、そうではありません。市町村現場での課題は、急速に変化しています。
研修主題、内容、講師などは、毎回、受講生の意見と教授陣の検討を元に、見直す仕組みができています。さらに今回書いたような、業務運営や研修方法なども、社会の変化に応じて変えていかなければなりません。資料を、紙から電子情報に変える試みも始めています。
職員が積極的に取り組んでくれるのは、うれしいです。

日本経済の再生は人づくりが課題

1月31日の日経新聞大学欄に、大竹文雄・大阪大学特任教授の「日本経済の再生 人づくり蛾課題現状維持の誘惑絶つ」が載っていました。「この国のかたち」を変えることの重要性と難しさが分かります。

―教育システムのどこに問題がありますか。
「先進国に必要な人材教育ができていません。先端を走る国々では常に技術革新が起きている。新しいことを考えて挑む人を育て評価する仕組みがあるからです。いまだに日本はそうなっていない。そこに30年以上続く停滞から抜け出せない根本原因があります」
「これを変えるのはすごく難しい。これまで長所だった協調を極端に重視した教育を見直す必要があるからです。高度成長期などキャッチアップの時代には、他の成功モデルを学んで改善すれば、うまくいった。みんなで協力して生産性をあげることが重要だったわけです」

「協調重視の発想が社会に広がり、教育にも浸透しています。幼稚園や保育園の教育でも友人関係や協調性を非常に大事にする。一方で論理的思考や人と違う考えを重視してこなかった。いま大事なのは技術革新を生む発想、間違ってもいいからアイデアを出し試す思考法です。それができる人の育成、失敗を許す教育に転換すべきです」
「悩ましいことに、人口減少と高齢化が変化を難しくしています。新しい発想を認めない、現状でいいという保守的な人が増えていきます。まず、この流れを止めないといけない」

―学校や会社も変わらざるを得ません。
「日本社会には新しいことを許容しない特性があり、行動経済学でいう現状維持バイアス(ゆがみ)が強く働いています。人や企業が変化か現状維持かで迷う場合、変化より現状が必ず良く思えてしまう。このゆがみを除くことで、変化が起きます」

人生の意味は誰が決めるのか3

人生の意味は誰が決めるのか2」の続きです。自分の人生の意味を考えることについてです。人生が自己発見の過程であるとすると、最初から目標があり、物差しがあるわけではありません。

私が心がけてきたことは、その場その場で精一杯生きることことです。
官僚という職業を選んだので、仕事が社会の役に立つことは疑う必要はありませんでした。仕事の中で判断に迷うこともありましたが、「後世の人に説明できるか」「閻魔様の前で胸を張れるか」を判断基準にしてきました。もっとも、いつもいつも正々堂々と立派に行動してきたとは言えません(恥ずかしいです)。

どのような職業を選ぶか、そしてどのような生活を送るかは、人それぞれです。しかし、棺桶に入ったときに「私は精一杯生きた。悔いはない」と言える人生が「善い人生」なのではないでしょうか。
希望して努力してもうまくいかない場合も、偶然や不条理なことで夢が実現しないこともしばしばあります。いえ、そのようなことの方が多いでしょう。
結果がうまくいくことはうれしいことです。しかし、うまくいかなくても「私は努力した」ということに価値があると思います。「心情倫理と責任倫理」、私の言葉では「努力倫理と結果倫理」です。

前回の話に戻れば、人生の意味は、本人が考える場合は「夢に向かってどれだけ努力したか」によって測られ、社会からは「どれだけ家族や社会に貢献したか」で測られるものではないでしょうか。
とはいえ、この問題は、人によって考え方が異なるでしょう。また、このような短い文章で語ることには向いていませんね。

わかりづらいカタカナ語をなぜ使うのか

2月2日の朝日新聞オピニオン欄「わかりづらいカタカナ語、なぜ使うの 社会言語学者・井上逸兵さんに聞く」から。

・・・たしかにカタカナ語がよく使われていますね。言葉には、情報伝達のほかに、その言葉を使うことで「自分は何者なのか」を示す機能があります。ビジネスの世界で使われるカタカナ語は、後者の機能を果たしているのではないでしょうか。つまり、顧客や同僚・上司に「私は『イマ風』の仕事の仕方をわかっていますよ」と、自分自身がその分野に詳しい人物であることを示しているのです・・・

・・・カタカナ語を使うのは悪いことではありません。一方で、行政が安易に使うのは問題があります。行政の役割は、必要な情報をわかりやすく万人に伝えることです。意味がわからない言葉を使えば、当然、情報伝達ができない。さらに自分は排除されているという感覚まで生み出してしまう恐れがあります。
特にコロナ禍では、行政のカタカナ語の使用が目立ちました。わかりやすい例で言えば「ステイホーム」といった言葉。日本語だと目新しさを感じないので、注目を集めるという意味では成功したと思います。一方で、老若男女すべての人が意味を理解できたかというと、少し疑問があります・・・

意図の伝達、対話の手段でなく、顕示欲の手段なのですね。高級銘柄品(カタカナ語で言うと「ブランドもの」)を持ち歩く意識と同じです。威信財の一種でしょうか。
とすると、高級銘柄品を持つことが一部の人たちの間では恥ずかしいことと認識されるので、そのような意識が広がると、カタカナ語を使う人も恥ずかしい人と思われるときが来るのでしょうか。いえ、それら高級銘柄品の価値が下がると新しい銘柄を探すように、新しいカタカナ語を使うのでしょうね。

『行為主体性の進化』

マイケル・トマセロ著『行為主体性の進化 生物はいかに「意思」を獲得したのか』(2023年、白揚社)を読みました。

宣伝には、次のように書かれています。
「認知心理学の巨人トマセロが提唱する画期的な新理論!
何をするべきかを自分で意思決定し、能動的に行動する能力、それが「行為主体性」だ。生物はどのようにして、ただ刺激に反応して動くだけの存在から、人間のような複雑な行動ができるまでに進化したのか?
太古の爬虫類、哺乳類、大型類人猿、初期人類の四つの行為主体を取り上げ、意思決定の心理構造がどのように複雑化していったのかを読み解いていく」

主体性の進化に着目するとは、なかなか素晴らしい着眼点ですね。生物が生まれた時は、刺激に対し反応するだけでした。著者は、その後に4つの段階を経て、現在の人間のように考え行動できるようになったと説明します。
まず、太古の脊椎動物が、目標指向的行為主体となります。次に、太古の哺乳類が、意図的行為主体になります。そして、太古の類人猿が、合理的行為主体となり、太古の人類が、社会規範的行為主体になります。
それを生んだのは、それぞれの生物のおかれた生存環境です。そこで生きていくために、意図による行動が生まれ、集団での行動が生まれます。環境が主体性を生むのです。この説明はわかりやすいです。推測でしかありませんが。

もう一つ知りたいのは、そのような意識が、脳の中でどのようにして生まれているのかです。まだまだ、わからないことばかりですね。