報道機関の甘い追求が生むはぐらかし

9月14日の朝日新聞オピニオン欄、「それ、謝罪ですか」のうち、デイビッド・マクニールさんの「甘い追求が生むはぐらかし」が参考になります。原文をお読みください。

・・・日本に移住して20年以上が経ちますが、この国では「謝罪」に特別な意味があるように思えます。神妙な態度で謝れば、あるいは反省の意思を示すために職を辞せば、責任を取ったことになる。西洋では「責任」(responsibility)は文字どおり応答義務ですが、日本ではかなり意味合いが違う。むしろ謝罪は、責任の追及を避けるためのパフォーマンスという要素が強い。
ただ、私としては、この問題を文化論に還元したくありません。政治家や企業トップが、あいまいな釈明の言葉で済ませてしまえる背景には、やはり日本メディアが抱える問題があります。

首相官邸の会見にも出席してきましたが、まず、質疑のキャッチボールがほとんどない。記者の質問の多くは形式的で、鋭い追及も少ない。これは英語では“short circuit questions and answers”と呼ばれます。おざなりで省略型の質疑、という悪い意味です。菅義偉官房長官時代に厳しい質問を重ねた記者は、私の目には、国民の疑問を代弁するという負託に応えていると映る。でも、現場では記者クラブのルールや「和」を損ねた人物と扱われます・・・

・・・権力者に非公式に接触してオフレコでのリークに頼る「アクセスジャーナリズム」は、どの国にもある。でも、日本の記者はこれに頼りすぎです。ネタをもらうため、表では批判や追及をしない。これでは、権力がアメとムチでメディアを操り、分断させる手段に利用されるだけです・・・

失敗した場合の責任の取り方を、私なりに整理したことがあります。「責任をとる方法2