政治の行政化、官僚組織の劣化

7月8日の朝日新聞オピニオン欄、御厨貴先生の「安倍元首相銃撃1年」(デジタル版)から。

安倍晋三元首相が銃撃された事件から8日で1年。自民党の最大派閥を率いる政治家が突然の暴力によって命を絶たれた後、日本の政治はどう動いてきたのか。安倍元首相の不在がもたらしたものとは何なのか。政治家らの口述記録を歴史研究に生かす「オーラルヒストリー」の第一人者で、政治学者の御厨貴さんに聞いた。

――安倍元首相が暴力によって命を絶たれて1年になります。
「あの瞬間、日本の政治が大きく変わる激動の1年を迎えるのではないかと予測しました。しかし、そうはなりませんでした。自民党最大派閥のトップでもあった政治家が突然亡くなったのですから、ある意味、首相を含めてどの政治家がいなくなるよりも衝撃が大きく、権力の中枢に穴が開いたようなものです。日本の政治が混沌とするんじゃないかと当初は思いました」
「しかし、自民党の安倍派の後継争いが激化して分裂したり、政治権力をめぐる激しい闘争が起こったりすることもありませんでした。確かに安倍氏という存在はいなくなったけれど、そのまま政治は凍結されているようです。岸田文雄首相のもとで政治が奇妙に『行政化』され、躍動感が失われた結果だといえるでしょう」

――政治の「行政化」ですか?
「良きにつけ、あしきにつけ、安倍氏の政治は、彼なりのイデオロギーや思い入れに深く彩られていました。その根っこにあったのは、戦後体制を否定することでした。首相退任後も政治に影響力を保っていました。それに対して岸田氏は状況追従型でやらなければならないことをただ進めているようです。そこには情熱も深い思い入れも見えません。これは理想を掲げる本来の意味での政治ではなく、行政のやり方です。岸田氏自身がどこまで意識しているのかは分かりませんが、政治的な動機をむき出しにせず、まるで大きな政治課題ではなく小さなことをやっているような形で、あまり力を込めずに説明を繰り返します。安倍氏も菅義偉前首相も、思いがあるだけに、つい力を込めて言い募ってしまうんですが、岸田首相にはそれがありません。淡々と説明して打ち切りますね。秀才タイプなのかもしれません」

――どのような問題にもっと光を当てるべきだったと。
「いま政治に求められているのは、安倍氏が進めてきた分断の政治の帰結があらわれていることを直視して、抜本的な対策を示すことです。安倍氏の政治手法は敵と味方をはっきりさせて、対決姿勢を鮮明に打ち出す政治でした。対立と分断をどうすれば緩和できるのかが、問われています」

――対立と分断の問題ですか。
「右肩上がりの時代は終わり、世界の中で日本の立場はとても難しくなっています。実は90年代からもう経済の成長は難しいということが分かっていました。それなのにずっと問題は先送りされています。ちょうどその時代に、私たちは政治改革に随分時間とエネルギーを費やしましたが、そのころから日本経済は縮小し、埋没を続けています。明治以来の日本は国家として大きくなること、発展をすることを主眼にさまざまな政策を進めてきましたが、このように小さくなることへの対応はしたことがありません」
「成長しているときは様々な問題を成長と分配が解決してくれますが、知恵を絞らなければならないのは縮小するときです。本来、こうした問題に官僚や民間、学者などの知恵を集めて大きな政策の絵を描くのが、岸田首相が誇りとする池田勇人氏が創設した自民党の宏池会の得意技だったはずです。ところが本領を発揮すべきだった時期に、この派閥は加藤紘一氏による『加藤の乱』をきっかけに分裂し、低迷していました。この責任は非常に大きいと思います。その意味では今回の事件以降、久しぶりに宏池会が復活したのです。安倍、菅政権で痛めつけられた官僚たちは、やっと自分たちのルールが通用する政権になって安心しているでしょう」

――官僚制度はどうでしょう。
「明治以来、この国を支え、55年からは自民党と政策を担ってきた霞が関の官僚組織も根っこから劣化していると思います。国土事務次官などを歴任した下河辺淳氏にもよく聞きましたが、例えば日本の国土計画については『全総』と呼ばれた全国総合開発計画を60年代からほぼ10年ごとに策定し、大きな絵を描いていました。旧通産省も世界で競争できる産業や中小企業政策などの大きなプランを、有識者や族議員と呼ばれた政治家の力などを総動員して練り上げていました。しかし今世紀に入ってからそうした霞が関の機能は見えなくなっています。いまは護送船団方式を組めず、業界への行政指導もできなくなっていますし、時代が変わっているのは事実でしょう。かつてと違って大学生が官僚になることを希望しなくなっているのも明白です。官僚組織もこのままでは危うい状況です」