助手の研究と発言を止めようとする教授

朝日新聞に連載された「語る 人生の贈りもの」、環境工学者・中西準子さんの第7回「圧力10年、不屈の主張で国動かす」(6月6日掲載)から。

・・・《激しい論戦のきっかけは「浮間(うきま)レポート」だった》
工場排水を共同で処理する最新鋭施設とのふれこみで1960年代半ば、浮間処理場(当時)が東京都内にできました。でも、私たちが調査すると、水銀、鉛、銅、クロムなどの有害な重金属の多くが処理されずに川に流れ出ていました。大量の排水を集めたことで有害物質の濃度が薄まったものの、肝心の物質が除去されなかったのです。
岩波書店が出した雑誌「公害研究」創刊号(71年)に調査結果をまとめた記事(通称・浮間レポート)を出すと、教授や学界、行政の圧力にさらされました。

教授は私に直接、記事を取り下げるように求めました。多くの関係者が大学に現れ、「なぜ言うことを聞かせられないのか」と教授に迫ったといいます。私の研究を手伝う学生たちの就職も妨害されましたが、私たちは屈しませんでした。明らかに技術としておかしい、公害対策として効果がないと分かったのに引き下がるわけにはいかない。ごく単純なことです。数年後に浮間処理場は廃止され、76年の下水道法改正に至ります。

《「万年助手」の一人に数えられ、助手ながら「中西研」と呼ばれる研究グループができていた》
私の研究グループに対する学内外からの圧力は10年以上続きました。肩書は20年以上、東大助手のままでした。それでも私は心ある多くの学生たちに囲まれ、研究を前に進めることができました。
私たちの主張は、学会や専門誌での発表の機会を得にくく、たびたび一般向けの雑誌に記事を書きました。文系出身者が主導する国の政策を変えるには「縦書きで書く」必要がありました。工場排水の規制に次いで、私たちは大規模な流域下水道の問題点を指摘します。82年に家庭の下水を分散型で処理する「個人下水道」を本格提案する頃には理解者も増え、建設省(当時)もやがて姿勢を転換します。私たちは国の方針を動かしたのです・・・

その教授に話を聞いてみたいですね。