『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』

松下憲一著『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』(2023年、講談社選書メチエ)が、面白く勉強になりました。紹介文を一部抜粋します。

・・・中国の歴史は、漢族と北方遊牧民との対立と融合の歴史でもある。なかでも、秦漢帝国が滅亡した後の「魏晋南北朝時代」は、それまでの「中華」が崩壊し、「新たな中華」へと拡大・再編された大分裂時代だった。この「中国史の分水嶺」で主役を演じたのが、拓跋部である。
拓跋部は、モンゴル高原の騎馬遊牧集団・鮮卑に属する一部族だった。386年には拓跋珪が北魏王朝を開いて、五胡十六国の混乱を治めた。雲崗・龍門の石窟寺院で知られる仏教文化や、孝文帝の漢化政策により文化の融合が進み、「新たな中華」が形成された。北魏の首都・洛陽の平面プランは、唐の都・長安に受け継がれ、さらに奈良・平城京へともたらされるのである。
その後、中国を統一した隋王朝、さらに大唐帝国の支配層でも拓跋部の人々は活躍し、「誇るべき家柄」となっていた。「夷狄」「胡族」と呼ばれた北方遊牧民の子孫たちは中国社会に溶け込みつつも彼らの伝統を持ち込み、「中華文明」を担っていったのである・・・

「秦漢時代の中国人と、隋唐時代の中国人とは違っている」と聞いたことがありました。中華思想は、中華を高く夷狄を低く見る考え方ですが、ラッキョウの皮をむくと、中華の中に夷狄が現れるのですね。
中国という言葉の使い方は、19世紀末から20世紀初頭に形成されたのだそうです。120年前に梁啓超が自国史を書こうとしたときに、「我が国に国名はない」として「中国史」という言葉を作ったのです。「中国5千年の歴史」という言葉も、たかだか100年の歴史しかありません(6月10日の日経新聞書評欄、川島真・東大教授の「中国という捏造」)。

追記
この記事を読んだ肝冷斎によると、「現在の中国あたりを表す言葉は、直前には「キタイ」(契丹から)で、その前が「タブガチ」(拓跋から)です」とのこと。