戦後の民主主義がもたらした素晴らしいものの一つに、平等があります。
憲法による法的な平等の保障も重要ですが、暮らしを平等に近づけた経済発展の方が重要だったと私は考えています。いくら法の前では平等と言われても、貧富の差が大きかったり、就くべき職業が決まっていたりすると、実質的な平等は実現できません。
昭和後期の「一億総中流」は、大金持ちが貧乏になったというより、貧乏な人たちの所得が上がったのです。農村で貧しい暮らしをして古いしきたりに縛られていた人たちが、都会に出て勤め人になり所得も上がり、社会の拘束からも自由になりました。
ところが、平等社会という思想が、経済停滞とともに負の機能を発揮しています。
一つは、「「庶民感覚」が商売の足を引っ張る」で書いたことです。
発展している時期には、「あの人も金持ちになったんだから、私も頑張ろう」とか「あの家も子どもを大学に行かせたから、我が家も努力して行かせよう」と、成功した人をうらやましく思いつつ、自分も努力しようと考えました。
ところが経済が停滞すると、「どうせ私が努力しても、あの人のようになれない」と思う人もでてきます。そこに、あの記事に書いたように、「庶民感覚」なるものを基準に、成功した人をやっかむという暗い言論が出てきます。
各人の思いを遂げることができるようにするためには、自由な社会が必要です。そこでは、努力の差、持って生まれた能力の差、環境の違い、そして巡り合わせという運によって、成果の違いが出ます。100メートル競走、大学入試、会社での出世などなど。「結果の平等」は望むことができません。それをしたら、多くの人が不満を持つでしょう。
他方で、あまりの不平等は、社会に不満を生みます。必要なのは、出発点での一定の平等「機会の平等」です。