4月2日の読売新聞、古川隆久・日大教授の「皇位継承議論 原点は民意 昭和天皇「拝謁記」」から。
・・・拝謁記は49〜53年に計622回に及んだ天皇との拝謁(面会)の記録です。違う風景を見てきた2人が本音をぶつけ合い、象徴のあり方を試行錯誤した日々が刻まれています。5年前の発見により、「戦前と戦後の天皇制の落差はどうやって埋められたのか」という長年の謎が解明されました。大転換期を迎えた天皇制の中心にいた2人の肉声は、現代の議論を見つめ直すヒントを与えています。
昭和天皇と田島の試行錯誤のクライマックスは、日本の独立回復を祝う52年5月の記念式典で、天皇が述べたお言葉を作成する過程にあったことがわかりました。
昭和天皇は戦争への悔恨と反省を盛り込んだお言葉を希望しました。田島もそれに賛同します。しかし、お言葉案を吉田茂首相に諮ると、認められませんでした。
天皇がここで謝ってしまうと、退位や国の指導者も責任を取って引退すべきだという議論を招き、戦後復興の妨げになる、という政治的な判断からでした。
吉田の意見を聞いた田島は態度を一変させ、昭和天皇にお言葉の修正を求めます。国権の最高機関・国会で選ばれた首相の判断が最優先という、民主主義の原則を貫いたのです。昭和天皇は不満ながらも修正を受け入れます。政治の決定に従う象徴天皇の地位は、この時、確定したのです・・・