進学できない外国人の子ども

1月7日の日経新聞1面に「公立高「外国人枠」なし73% 進学せぬ子、日本人の10倍」が載っていました。
・・・高校で外国人受け入れ枠の導入が進んでいない。2023年の入試で全国の公立高の73%が特別枠を設けないことが日本経済新聞の調査で分かった。日本語が得意でない生徒にとって一般入試は容易でない。中学卒業後に10%が進学しておらず、全中学生の10倍の水準だ。新型コロナウイルス下の入国制限緩和で外国人労働者受け入れが再び拡大しており、子どもが進学しやすい環境を整える必要がある・・・

また、社会面では、「外国人枠「来日3年内」受験の壁 公立高校、緩和の動き」を解説していました。
・・・来日した子どもの進学を巡る「壁」が解消されない。2023年入試で外国出身の生徒向けに定員枠や特別選抜を設ける公立高校は27%どまり。枠などがあっても対象を「来日3年以内」に限る地域が多く、中学入学前に来日した子どもはこぼれ落ちる。高校入試レベルの日本語習得には5年ほどかかるとされる。実情を踏まえた対応が求められる・・・
・・・専門家の間では、日常会話は2年ほどで身につくのに対し、学問的な思考に必要な言語能力の習得には5~7年かかるとの見方が強い。文部科学省も学校現場向けの資料で「外国人生徒が母語話者レベルに追いつくには少なくとも5年必要」と説明。支援団体から「特別枠を来日3年内に限るのは、言語習得の実態にそぐわない」との声が上がる・・・

鯨肉を食べなくなった、肉食の変化

1月7日の読売新聞夕刊に「クジラ肉は自販機で」という記事が載っていました。

「鯨肉はたんぱく質や鉄分など栄養価が高く、食糧難にあえぐ終戦直後の日本の食卓を支えた。農林水産省の統計によると、国内の鯨肉消費量は1962年度には23・3万トンに達し、牛肉(15・7万トン)や鶏肉(15・5万トン)を上回っていた。
ところが乱獲で鯨が激減し、資源管理を行うIWCは80年代、商業捕鯨モラトリアム(一時停止)を採択し、発効。食文化も変化し、鯨を食べる習慣は急速に失われた」とあります。

その変化が、表になっています。
前が1962年度、後ろが2021年度の国内年間消費量、()は1人1年あたり消費量です。半世紀の間に、牛肉などの消費がこれだけも増えたのですね。
牛肉15.7(1.2)、126.7(6.2)
豚肉32.2(2.3)、267.5(13.2)
鶏肉15.5(1.2)、260.1(14.4)
鯨肉23.3(2.4)、0.1(0.0)

日本酒の4合瓶

1月14日の日経新聞に「日本酒なぜ4合瓶? 一升の半分にしなかった理由」が載っていました。
・・・熱かんがおいしい冬。スーパーの店頭には4合瓶(720ミリリットル)が並んでいる。昔ながらの一升瓶(1800ミリリットル)は、合に換算すると10合。半分の5合ではなく、4合瓶が主流なのはなぜか・・・

世間では「しごうびん」と発音するようですが、相手に伝わりにくいので、私は「よんごうびん」と呼んでいます。ワインの瓶が750ミリリットルなので、ほぼ同じ量です。
「洋の東西を問わず、これくらいが家庭向きなのかな」と思っていました。アルコール度数も近く、飲んだ量を計算するには、便利な基準です。「×日で、4合瓶(ワイン)1本を空ける」というように。

日本酒は、かつては樽や陶器のとっくりに入っていました。一升瓶が出始めたのが明治30年代で、大正期に普及したとのこと。そのころは、一升瓶のほかに5合、4合、2合瓶もあったようです。
一升瓶は大きくて、冷蔵庫には入りません。ところが、4合瓶が普及したのは、売る側の都合のようです。一升瓶の半分の量で、半額ではコストがかかります。4合瓶で半額は、都合よかったようです。

連載「公共を創る」第140回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第140回「政治主導を巡る近年の状況」が、発行されました。前回から、1990年代と2000年代に大きな改革が行われた後、どのような改革の取り組みが行われてきたかについて、説明しています。今回は、政治主導、官邸主導、内閣人事局の設置を取り上げました。

全体を通してみると、その後の改革の取り組みは下火になりました。他方で、行われた改革は、後戻りすることなく定着しています。
課題は、制度を変えればすむものでなく、運用を変える必要があるものです。それは特に政治主導についていえます。これについては、まだ道半ばであるというのが、私の評価です。

民主党政権が、官僚を排除した政治主導を目指しました。東日本大震災被災者支援本部事務局で、松本防災大臣や仙谷副長官から「責任は取るから、君たちは思う存分働け」と指示をいただき、私を含めた官僚たちは力を発揮することができました。各府省幹部との連絡を密にするため、廃止された事務次官会議に代わる情報交換会議も作ってもらいました。それが後に、次官たちが集まる各府省連絡会議に発展しました。そのような記憶も書いておきました。

あうんの呼吸は上司の甘え

1月11日の日経新聞「私の課長時代」は、柘植一郎・伊藤忠テクノソリューションズ社長でした。

・・・「日本だけでの仕事は面白くない」という気持ちになり、商社を志望しました。
配属は紙パルプ事業で、北米やオーストラリア、北欧から原料を輸入する担当でした。93年にニューヨークが拠点の子会社に出向。米国で初めて課長になり、3人の部下を抱えます。
北米や南米から紙の原料となるパルプを調達し、日本や米国の製紙会社に売る役割でした。当時はパルプの引き合いが強く、売上高の目標達成は難しくありません。しかし異文化でのチーム運営に苦労しました。部下の米国人男性は優秀でしたが「あうんの呼吸」が全く通じません。

ある日、日本から製紙会社の経営者が来ることになり、部下に懇談の飲食店の予約を頼みました。大切な顧客で、「予算はいくらでもいい」と依頼。しかし部下は「ノーリミットなんてありえない」と口にし、困った表情を浮かべます。信頼して任せたつもりでしたが、適正な単価や食の好みなど、具体的な指示を求められました。
チームの目標設定も同じです。例えば私が「あの代理店と何が何でも取引しよう」と命じても、部下からは「なぜその企業なのか」「その新規取引でシェアは何%拡大するのか」などと質問攻めにあいます。日本人同士では少ない言葉でも、チーム一丸で目標に向かう経験が多かったです。しかし米国駐在で、それは「上司の甘えだ」と気づきました。世界の誰にでも伝わるように、明確かつ論理的な指示の方法を鍛える場になりました・・・