差別を生んだ分類の歴史

1月4日の朝日新聞オピニオン欄、竹沢泰子・京都大学教授の「人種も社会的に作られた 分類したがる私たちは差別をなくせるのか」から。

――そもそも、なぜ私たちは物事を区別し、分類するのですか。
「人間は多種多様な情報を、視覚や聴覚といった五感などで受信し、分類することで整理しています。脳の中に数多くの箱のようなものをつくって情報を投げ込み、比較して理解したり、予測したりする。見知らぬ世界のことは大きく分類し、よく知る世界では細かく分類する。効率的で便利な情報処理システムで、人間が普遍的に持っている能力です」
「しかし、何をどのように分類・区別するかは、後天的です。植物や動物、雨や雪などをどう分類し、名づけるかは、文化圏によって異なります。人間を分類する場合、肌の色などの外見で区別するとは限りません、儀礼や慣習で、自集団と他集団を区別する社会もあります」
「分類したそれぞれの人間集団に固定的な偏見を抱きがちですが、それらは私たち自身の中にある、なりたくないもの、自分の中から排除したいもの、あるいは逆に、憧れるもの、取り入れたいものを投影しているのです」

――見た目も違うので、分類に科学的根拠があると思いがちですが。
「目で見て分類するというのは、解剖学や遺伝学が発達するまでは博物学の基本でしたが、今は違います。そもそも人間の外見は実際には多様で連続体です。それを無理やり分類して、名付けるのは、時代と社会の産物です。100年前、米国のジャーナリストのウォルター・リップマンは『人間は見てから定義するのではなく、定義してから見るのだ』という言葉を残しました」