日本社会の意識がつくる孤立する家族

9月5日の朝日新聞文化欄「元首相銃撃 いま問われるもの」、岡野八代・同志社大学教授の「家族が負う、政治が放棄した責任」から。

安倍晋三元首相への銃撃事件を起こした山上徹也容疑者は、家庭環境への不満や孤立感をSNSにつづっていた。ケア労働と家族の関係に詳しい政治学者の岡野八代・同志社大大学院教授は、事件の背景に「子育ての責任は家族が負う」という日本の家族観があると指摘する。

――事件の背景には「閉じられた家族」の問題があると主張されています。どのような意味ですか。
まず伝えたいことがあります。日本では事件が起きたとき、その社会的背景について言及すると、「容疑者を擁護している」との批判がでてきます。しかし、個人の罪を司法が裁くことと、その背景にある問題を論じることはまったく別です。社会的背景を考えることは市民一人ひとりの重要な責任ですし、政治家には政治的責任について考える義務があると思います。

日本では家族のことは家族任せとし、他の家族にはなるべく介入しない社会が築かれてきました。報道を見ると、山上容疑者の母親は旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の活動にのめり込み、子どもたちの世話もできなくなった。それなのに、家族は固く閉ざされ、外からの支援が受けられなかった。家族は、子どもや高齢者といった社会で最も弱い人を抱える集団であることも多い。その家族に対し、すべて自分たちで責任をとれというのは、政治のありかたとしていびつです。

――自己責任論が子育てに対する家族の責任を強めることになるのですか。
未成年は経済的に誰かに依存して養育・教育されるので、自己責任論は例外なく家族責任を重視することになります。山上容疑者は、家族の外に支援を求めることができず、孤立を深めた。彼は崩壊した家族や、母親が作った負債に責任などとれないわけです。
自己責任論の問題は、本来とることができない責任を個人にとらせようとすることです。彼一人が思い詰めることのないよう、学費の支払いや悩みを聞くような社会的支援があるべきでしたが、国は責任を放棄していた。自己責任論には政治責任を免除する効果があり、それこそが問題の核心です。