失われた30年からの脱出

1月30日の読売新聞1面コラム「地球を読む」、伊藤元重先生の「「新しい資本主義」「失われた30年」構造不況」から。

・・・1990年代にバブル経済が崩壊してから日本経済はジリ貧が続き、「失われた30年」とも言われる。低成長・低金利・低インフレ(デフレ)の3点セットである。顕著なのは、賃金の低迷、中間所得層の弱体化、所得格差の広がりで、長期停滞と呼ぶこともある。要するに、単に景気が悪化したというよりも、経済全体に構造的な問題があるということだ。
旧来の資本主義経済を擁護する人は、市場経済メカニズムが持つ資源配分機能や成長 牽引力を強調した。こうした考えをもとに日本でも規制緩和が進められ、市場経済をより有効に機能させるために多くの改革が実施された。これらの改革に意味がなかったわけではないが、その結末が「失われた30年」でもある・・・

・・・ただ、1970年代のインフレの経験を通じて、新古典派は、ケインズ的な過剰な政策的介入には好ましくない面も多いと、批判を展開した。そうした論争の中で、新古典派をさらに先鋭化させた市場原理主義の考え方が広がった。
しかし、日本に続いて世界の主要国が構造不況に陥ると、ケインズ的な考え方が復調してきた。日本でも、アベノミクスによる需要喚起策が効果をあげた。コロナ危機に際しては、多くの国がケインズ的な需要喚起策に頼っている。
財政や金融政策による需要喚起は、カンフル剤としての効果は期待できるが、経済の構造を変える力はない。日本の潜在成長率が依然として低迷を続けていることが、それを裏付けている・・・

・・・日本経済の構造を変えないと、人々が望む成果は期待できない。低成長やデフレ状況が続くだけでなく、貧困の広がりや中間層の弱体化などの多くの問題が、抜本改革を迫られよう。
ケインズ政策の基本が、政府や中央銀行による需要刺激策であるとすれば、今求められるのはそれだけではない。経済構造を変えるには供給サイドのテコ入れが必要となる。
ただ市場に委ねればいいという新古典派への批判も多い。供給サイドの構造を変えるには政府による何らかの関与が求められる。
供給サイドの基本は、経済の成長力を示す潜在成長率である。これを高める方策は、労働増加、資本増加、生産性の上昇の三つしかない。高い成長を目指すことに抵抗感を持つ人もいるだろう。しかし、日本経済の成長率を上げないと、賃金上昇も、安心できる社会保障制度も実現できない・・・

続きは原文をお読みください。

ウエッブ会議の限界2

「ウエッブ会議の限界」の続きです。
もう一つは、「リモート会議には廊下や逃げ場がないこと」が指摘されていました。
確かに、ウエッブ会議は、カメラを消さない限り画面(カメラ)を見ていなければならず、サボれません。しかも、カメラや画面との距離は50センチほどです。気が詰まりますよね。顔を写さず資料が写っている場合は、逆にサボり放題ですが。

コロナがないとして、小さな机を囲んで数人が顔をつきあわせて会議をしている様子を想像してください。目の前に上司や同僚の顔があるのです。仕事になりませんよね。
それ以外でも、対面の会議と何か違います。私はウエッブ会議でもしばしば脱線した発言をするのですが、普通の職員にとって画面の上で冗談を言ったり、口を挟むことは気が引けるでしょう。

自動車のハンドルには、遊びがあります。少し回しただけではすぐタイヤの角度が変わらないようになっています。遊びがないと少しちょっとハンドルを切っただけでタイヤが動いてしまい、ふらついて運転しにくいそうです。また、道路の凹凸でタイヤが動き、それがハンドルに伝わってハンドルが常時震えるのだそうです。

皆さんの毎日の仕事ぶりを振り返ってみてください。勤務時間の8時間中、ずーっと仕事をしているわけではありませんよね。人間の緊張は、そんなに長時間続きません。息抜きが必要です。もっとも、息抜きばかりしていると、評価は下がります。

私のホームページが職員研修に

このホームページを見てくださっている方から、「読んでますよ」といった連絡をもらいます。「明るい課長講座」や「私の読んだ本」を参考にしてもらっているようです。「体験談」は若い官僚たちに、「そんな時代もあったのだ」という感覚で読まれているようです。昭和の公務員は、現在の公務員から見ると化石ですかね。
それとともに、文章の間違いの指摘を受けたりもします。ありがたいことです。一人編集長は、書いた文章の間違いをしばしば見落とします。皆さんも、気づかれたらお知らせください。

先日、ある市の課長さんから、次のような趣旨の連絡をいただきました。
「課長になり、部下指導について悩んでいた時に『管理職のオキテ』に出会いました。そして、その内容を実践するようになり、管理職としての仕事が面白くなりました」
「部下育成のために「明るい課長講座」の記事を課の職員に読ませ、議論しています」

ありがとうございます。どんどんご活用ください。

コロナとワープロが加速する日本語の乱れ

1月29日の朝日新聞夕刊、石川九楊さんのインタビュー「日本語の乱れ、コロナで加速?」から。

石川さんは、新型コロナウイルスの感染拡大によって、「日本語の乱れが加速し、それがあらわになりつつある」と語る。
「和製英語のウィズコロナとか、旅に行くという意味のtravelという単語に、行くという意味のgoをさらにくっつけたGoToトラベルとか、今までなら考えられなかったような言葉が使われるようになりました。エビデンスやファクトもよく聞きますが、どうして証拠や事実と言えないのか。業界の中でやりとりする分にはそれでいいのかもしれませんが、一般の人に向けて話す際は、言葉を置き換えるのがこれまでの常識でした。なぜ、そこまで日本語を傷めつけるのでしょう」

石川さんはこうした日本語の崩壊や乖離は「私たちが文字を書かなくなったことと密接な関係がある」と指摘する。
「今回の感染拡大に際して、欧米などにマスクを嫌う人たちが相当数いるのが明らかになりましたが、あれほどマスクを拒絶するのは、彼らの意思疎通が話し言葉を中心としているため、口が動いているのを見ないと、言葉の真意が伝わって来ないと感じるからなのです。これに対し、中国や日本などの東アジア世界では、言葉は書くことによって根拠づけられている。『口約束』という言葉があるように、話し言葉だけでは軽んじられてしまうのです」
「キリスト教世界の人々は話す際に神を意識している。一方、東アジアではタテに書くという行為を通じて初めて天を意識する。だから、書くことが行われなくなると、言葉の信憑性は失われ、言葉は崩壊してしまう。まさに今の状況です」

現代社会では手で書く機会が減り、活字などがとって代わっているが、石川さんは「声が肉声であるように、『肉文字』こそが文字であり、活字は文字ではありません」と話す。そこには一点一画を書くという膨大な思考と創造がないからだ。
「文字は点画を連ねて書いていくから文字になる。『愛』と自ら書くのと、アルファベットでaiと打ち込み、それを何回か変換して『愛』という言葉を選択するのはまったく違う」
変換で想定と違う言葉が出てきた場合、「そちらに意識が引っ張られる可能性があるのも問題」という。たとえば「海」をイメージしてumiと打ち込み、変換を行った際、「膿」という文字が出てきてしまったら、「それまで抱いていたイメージの連続性が消えてしまってもおかしくない」と語る。
「ぼくはワープロやパソコンを使うようになって日本の文学が変質してきたと感じています。先人は手で書くことによって、数々の文学作品を生み出してきた。スポーツとeスポーツは別物。今の文学が従来とは異質な『e文学』になっていないと誰が言えるでしょう」

ウエッブ会議の限界

1月28日の日経新聞に「アフターコロナのオフィス戦略」という、2021年11月に行われたウエッブセミナーの概要が載っていました。そこに載っていたことで興味深かったことを、2つ取り上げます。

一つは、「新しいアイデアを生むには、雑談やたわいない情報交換を通じてヒントを探すこと」が挙げられていました。かつては喫煙所が、この役割を果たしていたとも指摘されています。さまざまな立場の人が集まる、貴重な情報交換の場でした。
最近は給湯所、お茶を入れる場所が、喫煙所の代わりになっているようです。

アイデアのヒントをもらうだけでなく、集まって仕事以外の雑談をすることは、仕事を進める上で不可欠です。職場でなら、仕事で困ったとき、ちょっとしたことを周りの人に聞くことができるのです。改めて電子メールで質問するほどのことではない、あるいは誰に何を聞いて良いか分からないことは多いです。職場でなら、本人が手を挙げる、あるいは周囲が気がついて助言できます。

また、上司や同僚からは、職員の状態を把握する上で、対面は必須です。在宅勤務で電子メールや画面を通じてでは、職員の状況を把握するのは難しく、若手特に新入社員を指導することは無理です。
この項続く。