1月29日の朝日新聞夕刊、石川九楊さんのインタビュー「日本語の乱れ、コロナで加速?」から。
石川さんは、新型コロナウイルスの感染拡大によって、「日本語の乱れが加速し、それがあらわになりつつある」と語る。
「和製英語のウィズコロナとか、旅に行くという意味のtravelという単語に、行くという意味のgoをさらにくっつけたGoToトラベルとか、今までなら考えられなかったような言葉が使われるようになりました。エビデンスやファクトもよく聞きますが、どうして証拠や事実と言えないのか。業界の中でやりとりする分にはそれでいいのかもしれませんが、一般の人に向けて話す際は、言葉を置き換えるのがこれまでの常識でした。なぜ、そこまで日本語を傷めつけるのでしょう」
石川さんはこうした日本語の崩壊や乖離は「私たちが文字を書かなくなったことと密接な関係がある」と指摘する。
「今回の感染拡大に際して、欧米などにマスクを嫌う人たちが相当数いるのが明らかになりましたが、あれほどマスクを拒絶するのは、彼らの意思疎通が話し言葉を中心としているため、口が動いているのを見ないと、言葉の真意が伝わって来ないと感じるからなのです。これに対し、中国や日本などの東アジア世界では、言葉は書くことによって根拠づけられている。『口約束』という言葉があるように、話し言葉だけでは軽んじられてしまうのです」
「キリスト教世界の人々は話す際に神を意識している。一方、東アジアではタテに書くという行為を通じて初めて天を意識する。だから、書くことが行われなくなると、言葉の信憑性は失われ、言葉は崩壊してしまう。まさに今の状況です」
現代社会では手で書く機会が減り、活字などがとって代わっているが、石川さんは「声が肉声であるように、『肉文字』こそが文字であり、活字は文字ではありません」と話す。そこには一点一画を書くという膨大な思考と創造がないからだ。
「文字は点画を連ねて書いていくから文字になる。『愛』と自ら書くのと、アルファベットでaiと打ち込み、それを何回か変換して『愛』という言葉を選択するのはまったく違う」
変換で想定と違う言葉が出てきた場合、「そちらに意識が引っ張られる可能性があるのも問題」という。たとえば「海」をイメージしてumiと打ち込み、変換を行った際、「膿」という文字が出てきてしまったら、「それまで抱いていたイメージの連続性が消えてしまってもおかしくない」と語る。
「ぼくはワープロやパソコンを使うようになって日本の文学が変質してきたと感じています。先人は手で書くことによって、数々の文学作品を生み出してきた。スポーツとeスポーツは別物。今の文学が従来とは異質な『e文学』になっていないと誰が言えるでしょう」