年別アーカイブ:2021年

祝・連載「公共を創る」100回

2021年11月25日   岡本全勝

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第100回「通念と生活の「ずれ」ー顕在化した不安」が、発行されました。社会を支える民間のうち、企業や非営利団体の活動を説明したので、もう一つの要素である個人の意識を説明します。

同じような自然環境や地理的条件にあっても、関係資本や文化資本が違うと、国や地域で発展の違いが生まれます。「この国のかたち」が異なるのです。民主主義を輸入しても、刑法を輸入しても、それだけでは機能しません。国民がそれを受け入れ、運用しないと、絵に描いた餅になるのです。「集団主義」と呼ばれる日本国民の通念と慣習は、発展途上時代にはとてもよく機能しました。しかし、成熟社会になって、その通念と慣習が逆機能を生んでいます。

これで、第100回を迎えました。2019年4月25日からですから、2年半ですね。よく続いたものです。当初は、1年半ほど続くかなと思っていたのですが。こんなに続きました。この間、一度も原稿締めきりに遅れなかったことが自慢です。

事実の確認をしてくれた同僚、作図をしてくれた知人。そしてなんと言っても、毎回、原稿に目を通し鋭い指摘をして、真っ赤にしてくれる右筆たちに感謝です。さらにその原稿の誤りなどを指摘してくださる校閲さんには、頭が上がりません。
第4章2までたどり着いたので、もう少しで完結です。

休日夜間の電話受付、訪問診療

2021年11月25日   岡本全勝

日経新聞夕刊「人間発見」11月15日の週は、ファストドクター代表 菊池亮さんの「夜間・休日の患者に安心を」でした。
・・・医師の菊池亮さんが2016年に創業したファストドクターは地域医療機関と連携し、夜間・休日といった時間外診療の総合窓口サービスを手掛ける異形のスタートアップ企業だ。新型コロナウイルス感染症が拡大してからは自宅療養の患者を24時間体制で往診し、地域医療を守る最後の砦として奮闘した・・・

16日の「軽傷者搬送に疑問 往診で問題解決図る」から。
・・・帝京大病院は外傷センター、高度救命救急センター、総合診療ERセンターが連携して救急医療を行っていました。夜間当直のある日は36時間労働です。非常に忙しかったですが、運ばれてくるのは軽症の患者も多かった。お年寄りが深夜に出たゴキブリに驚いてひざかどこかを打ってしまったとか。

全国で救急搬送される患者の5割は軽症者。この数の多さが気になった。
救急車で搬送される人の約6割は高齢者です。このうち95%は在宅医療を受けておらず、ふだんは外来で医療機関を受診している人が、休日や夜間だと本来必要がないのに救急車を活用している。
高齢者は人数が増えるだけではなく、世帯構成も変わってきています。昔は2世帯3世帯の同居が多かったですが今は独居や高齢者2人の「老々世帯」が当たり前です。頼れる人が身近にいなくて、夜間や休日は日ごろ受診しているかかりつけ医も機能していない。だから救急車を呼ぶしかない。こうした人たちへのケアが必要なんじゃないかと思うようになりました。
軽症者の救急車利用を減らすため、自治体は「#7119」という番号で医療の緊急度を判定する電話相談を実施しています。でもそこで多くの人に外来受診を薦めているのに、救急車の搬送件数は増える一方です。
不要不急の救急搬送をぐっと減らすには、夜間や休日に医師が患者のところに行く往診で問題を解決してしまえばいい。そう思い、14年ごろから診療所の設立方法や在宅医療について考え始めました。そして東京・世田谷を拠点に、医師の名倉義人さん(現・新宿ホームクリニック院長)と2人で在宅診療所を始めました・・・

日本の官僚、国際貢献

2021年11月24日   岡本全勝

11月24日の朝日新聞経済面「国際課税、新ルールへ:2 財務官僚主導、古城で改革議論」に、浅川雅嗣君の笑顔が出ていました。浅川君は、麻生太郎内閣で一緒に総理秘書官を務めました。「2011年1月27日の記事」「2014年1月29日の記事」。

・・・2011年10月。フランス・パリ郊外の古城・エルムノンビル城の一室にOECD(経済協力開発機構)の加盟各国の租税スペシャリストが集まった。会合を企画したのは当時、日本の財務省で副財務官だった浅川雅嗣氏(現アジア開発銀行総裁)だ。
浅川氏はこの年、アジア人として初のOECD租税委員会の議長となった。租税委の作業部会議長や日米租税条約の改正などを経験してきた国際税制の専門家としての手腕が評価されたものだった。

議長の任期は5年。会合は、任期中に取り組むことを腰を据えて話し合いたいと、浅川氏が合宿形式で開いたものだった。
ひときわ盛り上がったテーマが、多国籍企業が本社所在国でも事業を展開している他国でも納税から逃れる「二重非課税」問題だった。米国の参加メンバーが口火を切ると、「問題を放置しちゃいけない」「国際課税ルールを見直そうじゃないか」と盛り上がり、意気投合したという。
背景には2008年のリーマン・ショックの後遺症があった。危機に対応する巨額の経済対策で、各国とも財政が悪化。とくに欧州では、ギリシャなど一部の政府債務の問題が欧州全体の金融危機につながりかねないとの懸念が高まっていた。
浅川氏は「古城会合」での議論をもとに12年6月、OECD租税委を中心に多国籍企業の「課税逃れ」への対抗策を考える「BEPS(税源浸食と利益移転)プロジェクト」を立ち上げた・・・

世界で戦う選手を育てる

2021年11月24日   岡本全勝

11月14日の日経新聞、ザ・スタイルに、松岡修造さんの「テニス選手育成 挑戦の旅」が載っていました。
松岡さん(1967年生まれ)が選手だった頃、日本男子は世界の100位に入るのが夢でした。彼がその壁を破り、1996年にウィンブルドンセンターコートで戦い、「こんなすばらしい場所で戦える日本男子を作り上げたい」と叫びます。
しかし、世界で戦うということは、テニスがうまくなればいいだけではありません。日本人が苦手な表現力、自立心、決断力を養わなければなりません。年間10か月を毎週違う国で過ごすために必要な心技体を養う必要があります。その方法を低年齢から教えることができれば、世界の舞台に導けると考え、10歳から18歳までの選手の強化プログラムを実施します。メンタル、技術、フィットネス、医療ケアの専門スタッフがつきます。

平成の30年が、日本にとって失われた30年と評価されています。産業経済面では、そうでしょう。しかし、テニスに限らず、サッカーや野球など、世界で活躍する日本選手が増えました。そこには、プロリーグにして鍛えること、世界に挑戦することなど、挑戦する人を育てる仕組みと支援する仕組みを作ったからです。一人の天才が出てくるだけでは、後が続きません。
他方で、産業や学問などでの停滞は、日本の中で満足し、世界で戦わなかったことによると、私は考えています。

アパルトヘイトの廃止

2021年11月23日   岡本全勝

デクラーク・元南アフリカ大統領が11月11日に亡くなったと、各紙が伝えています。11月12日の朝日新聞
・・・南アフリカのフレデリク・デクラーク元大統領が11日、西部ケープタウンの自宅で死去した。85歳だった・・・白人政権の最後の大統領として、アパルトヘイト(人種隔離)政策廃止へと導いた。民主化や改革路線の功績が認められ、故ネルソン・マンデラ氏とともに1993年にノーベル平和賞を受賞した・・・在任中は、27年に及ぶ獄中生活を続けていたマンデラ氏を釈放した。アパルトヘイト政策の廃止や、人種間の融和に努めた。朝日新聞の取材に「(アパルトヘイトを廃止しなければ)南アはさらに孤立を深め、武力対立で多くの人が命をなくし、経済は崩壊していただろう」と語っていた。さらに、南アが極秘に開発していた核兵器の廃棄も決めた。「共産主義の脅威が去り、南アが国際的地位を築くために(核兵器)保有は足手まといになった」と理由を述べた。
南アフリカでは94年に初の全人種参加選挙が実施され、マンデラ政権が誕生。デクラーク氏も副大統領に就いた・・・

13日付の松本仁一さんによる評伝には、次のように書かれています。
・・・4世紀にわたる少数白人支配をやめ、黒人勢力に権力を渡す決断をしたフレデリック・デクラークは、たまたま大統領の座についた政治家だっ・・・1989年、ボタが病で倒れ、大統領の座が回ってきた。「閣僚中の最古参だから」というだけの理由だった。
しかしそこから、歴史に残る大決断をする。アフリカ民族会議(ANC)の合法化、ネルソン・マンデラの釈放、アパルトヘイト廃止――。それまでだれもできなかったことを、2年の間に成し遂げたのである。
決断の契機になったのはマンデラとの極秘会談だった。政権についた直後の89年10月、終身刑で服役中のマンデラを大統領官邸に呼ぶ。その時の様子を、デクラークは私にこう語った。
「マンデラは、刑務所長が運転するBMWの後部座席で毛布をかぶって身を隠し、官邸の地下ガレージに乗り入れました。そこから大統領専用エレベーターで執務室に入ってきました。ずいぶん背の高い男だという印象でした」話を始めて、マンデラが頭のいい人間であることがすぐ分かった。この男だったら信頼できると感じたという。
80年代後半、黒人の暴動が各地で起きていた。南アは国際的な制裁の中で孤立し、社会は荒れた。国の将来を考えたら、権力の平和的移行しか道は残されていないと思っていた。
「アパルトヘイトは廃止しなければならない。それも小出しにではなく、ひとっ飛びにやらなければいけないと考えました」大統領である今ならそれができる。デクラークは、たまたま巡ってきたチャンスにすべてをかけた。
最大の懸念は、政権を渡した後、白人に対する暴力的報復が始まること、そして黒人政権が共産主義化することだった。マンデラに何度も念を押す。ANCの中には反対もあったが、マンデラが抑え込んだ。マンデラを信頼するしかないと腹を決めた。
決断が間違っていたらどうするか。国民への責任を考えると胃が痛くなり、眠れない夜もあったという。「結局、判断は正しかった。あの決断をしたのが自分であることを、私は誇りに思っています」・・・

平和裏に革命を起こしたのです。権力を持っている人たちが、歴史の流れを読んで、その権力を譲り渡す。なかなかできることではありません。