黒江・元防衛次官の回顧談3

黒江・元防衛次官の回顧談2」の続きです。「失敗だらけの役人人生(追補4)」(7月13日)は、「911米国同時多発テロとその後の対応」です。
当時の衝撃を読んでください。
今回、紹介したいのは、その本論のほかに、官邸連絡室についてです。3ページ目から出てきます。

小泉内閣になって、総理秘書官を出していない5つの省から、課長級の職員が秘書官を補佐する役割で常駐することになりました。
総理秘書官の実態も語られること、書かれることが少ないですが、この官邸連絡室の実態も語られることは少ないです。もちろん、秘書官たちは黒子に徹することを義務づけられていますが、どのような実態にあるのかはもう少し書かれても良いと思います。
官邸内や内閣官房についても研究書が少ないのですが、これもその一つです。

ワクチン以外の政治を

7月17日の読売新聞夕刊「とれんど」、穴井雄治・論説副委員長の「ワクチン以外にも政治を」から。

・・・東京五輪の開幕を目前に控え、56・8%の人が「オリンピックは結構だが、わたしには別になんの関係もない」という選択肢に同調したという。
1964年大会に関する世論調査である。近現代史研究者の辻田真佐憲さんは、近著『超空気支配社会』(文春新書)でこの結果を紹介し、日本の黄金時代を象徴するようなイメージは「六四年の幻想」だと指摘している・・・

・・・ワクチン接種を加速させる必要があるが、ほかの懸案が先送りされかねないことは気がかりだ。菅首相は自民党の二階幹事長に「ワクチン一本で行きたい」と語り、二階氏は「政治も政局もすべてワクチンだ」と応じたという。
たとえば、私権制限のあり方、緊急時の病床確保策、国と地方の役割分担など、コロナ禍で突きつけられた課題は多い。利害が絡み合う構造的な問題の解決こそ、政治が取り組むべき仕事である。
立憲民主党は、酒の取引停止問題で西村経済再生相を追及しているが、閣僚の辞任を成果と考える発想では物足りない。「ゼロコロナ」などと夢想せずに、具体的な改革案を示してもらいたい。
秋までに衆院選がある。空気だけで政権を選択する、というわけにはいくまい・・・

全文をお読みください。

松戸散歩2

松戸散歩」の続きです。
帰りに、駅前の高台にある、旧陸軍の工兵学校跡を見てきました。これも、訪ねたいと思っていました。亡き父が、訓練を受けたところなのです。

1921年生まれの父は、職業軍人ではなく、召集を受けた後、陸軍予備役将校となる幹部候補生試験に合格しました。戦時中で不足する将校を補充するため、士官学校卒の将校(職業軍人)以外に、このような選抜教育の仕組みがありました。そのような試験があることを知らずに入隊し、夜に便所の明かりで猛勉強をしたそうです。
「幹候試験は、奈良県内で数人しか受からない。高文試験(高等文官試験)より難しい」と語っていました。(その息子は体格も立派でなく、陸軍士官学校も廃止されていたので、高等文官試験の後継(国家公務員上級職試験)を受けました。)

しかも工兵という兵種で、松戸の工兵学校で教育を受けたのです。体格がよく、運動能力もよく(県内の陸上競技での入賞メダルもありました)、工業学校卒ということで、工兵に配属されたのでしょう。大阪高槻から東京赤羽、そして松戸で教育を受けました。
目の前にある江戸川で演習をして、橋を架ける訓練のほか、寒い季節に川に浸かって布を縫う訓練もあったそうです。要領のよい生徒は、事前に針に糸を通しておくのだそうです。手がかじかんで、針の穴に糸を通すどころではないとのことでした。

私が父と暮らしていた頃、高校生までですが、父が友人と酒を飲んでそんな話をするのを、横で聞いていました。戦争が終わってまだ20数年後のことです。いくつかの話を覚えているのですが、もっとしっかり聞いておくべきでした。
父が亡くなってから、ふと「松戸の工兵学校」を思い出し、インターネットで検索したらいろいろと載っていました。そこで、一度は訪ねたいと思っていたのです。父が元気なうちに、一緒に行くべきでした。

その後、父は准尉、少尉となり、中国旅順にあった船舶工兵の部隊に配属されました。大発(大発動艇)で敵前上陸する部隊です。海軍でなく、陸軍にあったのです。
そして、北は満洲ソ連国境、南はフィリピンからインドネシアへ。それらの経験は、一冊の本になるくらいです。それはまた別の機会に。

変わるドヤ街。労働者の街から福祉の街へ

朝日新聞ウエブサイト「貧困を見せ物に? 炎上した釜ケ崎のPR、背景には何が」(7月8日掲載)から。参考「ドヤ街

・・・6月上旬、大阪市南部の新今宮駅。構内の階段を下りて駅の南側に出ると、雨にぬれた釜ケ崎の街があった。
身一つでやって来ても、日雇いの仕事があり、簡易宿泊所で安く寝泊まりができる。様々な事情を抱えてたどり着く人たちも懐深く受け入れてきた街だ。1966年、行政によって「あいりん地区」と呼ばれるようになった一方で、釜ケ崎という通称も使われ続けている。
白波瀬准教授が釜ケ崎の現地調査を始めたのは、2003年。当時の新今宮駅前には「野宿者が暮らすブルーシートの小屋が、びっしりと立ち並んでいました」と振りかえる。
バブル崩壊後、建設現場での日雇いの仕事が激減。90年代後半には、野宿者があいりん地区だけで千人に達したというが、いまは小ぎれいなホテルなどが建ち、駅前に当時の面影はない。
厚生労働省が2000年代に2度の通知を出し、生活保護を受けられるようになった野宿者の多くが、簡易宿泊所を転用した福祉アパートなどに移っていったのだという・・・

・・・白波瀬准教授は「釜ケ崎は高度成長期からバブル期まで、日本経済に欠かせない労働力の供給地でした。大阪万博の会場や瀬戸大橋の建設で活躍したのも、日雇い労働者たちです。ただ、労働力を送り出す役割は以前に比べると小さくなっています」と説明する。
同センターによると、日雇い(現金)求人の年間累計は、バブル期の89年にはピークの約187万人を記録したが、90年代後半には100万人を割り込むようになり、19年には約25万人にまで減少した。
背景には求人方法の多様化や、労働者たちの高齢化があるという。

センターを出て釜ケ崎の中心部を歩くと、「福祉の方歓迎します」といった看板を掲げたアパートが目に入る。高齢化で生活保護を受給する労働者が増加。それを受けて、労働者向けの簡易宿泊所を、生活保護受給者向けのアパートに転用する例が目立つという。
白波瀬准教授は「かつては日雇いの仕事を求めて来る人が目立ちましたが、いまは主に支援を要する人たちが街に流入しています。釜ケ崎は『労働者の街』から『福祉の街』に変わったとも言われます」。
生活保護の受給(保護)率は、西成区が23・00%(19年度平均)。そのうち、あいりん地区は約40%に達する。全国平均の1・64%、大阪市の4・95%(いずれも20年3月)と比べて高い水準が続く・・・

松戸散歩

先日、キョーコさんのお供をして、松戸市にある戸定(とじょう)邸を見てきました。

徳川慶喜の弟、水戸藩最後の藩主である徳川昭武が、明治時代に作って住んだ屋敷です。NHKの大河ドラマでも紹介されたとのことで、ご存じの方も多いでしょう。
私も一度は見てみたいと思いつつ、先延ばしにしていました。東京からだと、江戸川を超えれば松戸ですから、近くです。福島県の浜通の往復には常磐線を使っていたので、何度も通過していたのですが。

松戸駅から歩いて10分です。高台にあり、眺めもよいところです。建物も庭園も、きれいに修復されています。お勧めです。ただし、コロナ対策で、人数制限があります。しばらく待てば、入ることができます。
このような住宅が、よく維持保存されたものですね。私は時々、BS朝日の「百年名家」を見ます。「新しいものがよい、それも洋風がよい。古い日本のものは価値がない」と考えてきた近代日本の中を生き抜いてきた優れもの、運の良いものたちです。

テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」も、日本の古美術を発掘しています。この番組に先だち、イギリスの個人が持っている古美術・古いものを鑑定する番組がありました。「ヨーロッパは古いものを大切にするんだなあ」(少々けちくさいな)と思ってみていました。
ようやく日本も、新しく建て替える、買い換えることがよいこととは限らない。古いものにも価値がある。輸入物でなく日本にも良いものがある。美術館博物館に所蔵されているものだけでなく、個人宅にも良いものがあると、意識が変わったのでしょう。

駐車場売店の木陰で、ゆかりのコーヒーを飲みながら、地元の野菜を売っているおじさんに、いろんな話を聞いてきました。
最後に「どこから来られましたか」と聞かれたので、キョーコさんが「東京です」と答えました。たぶん私たちが立ち去った後に、おじさんたちは「関西弁だったよな」と、しばらくこの話題で楽しめたでしょう。お土産を買うとともに、良いことをしてきました。
この項続く