大きな政府、小さな政府

6月26日の日経新聞コラム「大機小機」は「大きな政府 日本の事情」でした。

・・・1980年ごろから続く「小さな政府」への世界の流れは、大きな転換点を迎えつつある。新型コロナウイルス禍を機に政府の役割は飛躍的に高まった。バイデン米政権は米国救済計画に加え、雇用計画、家族計画といった大型財政政策を立て続けに打ち出して「大きな政府」へと明確にかじを切っている。
欧州はもともと日米に比べ「大きな政府」だったが、英国の欧州連合(EU)離脱でその色彩を一段と明確にした。政府は今後、気候変動対策を軸に経済社会への関与をさらに強めていくだろう。

それでは日本も「大きな政府」に向かうのかと考えてみると、事情はかなり違いそうである。その根本には、国民の政府実態への認識の問題がある。財政赤字の大きさから日本政府は大きすぎると思っている人も少なくないようだが、実態は全く異なる。
公務員の数は国際比較でみて圧倒的に少ない。財政支出の国内総生産(GDP)比が極端に低いとはいえないが、世界に冠たる高齢社会で社会保障支出が多いからにすぎない。これを除けば、日本は極めて「小さな政府」だ。新型コロナウイルス禍への対応の失敗にも、デジタル化の遅れといった要素はあるが、自治体や保健所などの人員や権限の不足に起因するところが少なくなかった・・・

・・・それでも消費税増税への反発の強さなどを考えれば、国民の間に政府の役割強化への合意が存在するとは思えない。日本が「大きな政府」に向かうとすれば、それは財政規律喪失の結果である可能性が高い。超低金利に安住して巨額の予備費が設けられるなど、財政規律は一段と緩んでいるように思われるからだ・・・

ここには、いくつかの論点があります。一つは、歳出は大きな政府なのに、負担は小さな政府だと言うことです。その差は、借金で子孫に負担を先送りしています。もう一つは、福祉など政策経費と、人件費などの業務費のどれをもって、大きさを比べるかです。
「小さな政府」という言葉は、有権者に向かっては、心地よい宣伝文句でしょう。その内実を検証せずに、宣伝文句を繰り返しているようです。

立花隆さんの功績

6月25日の朝日新聞、ノンフィクション作家・柳田邦男による「立花隆さんを悼む、ジャーナリスト+歴史家の目」から。
・・・一国の政治や社会に内包された巨悪とも言うべき矛盾が、一人か二人の作家あるいは知識人の表現活動によって衝撃的に露呈され、時代の傾向あるいは特質を劇的に変えるという事件は、洋の東西を問わず歴史的にしばしばあった。1974年10月発売の文藝春秋11月号に立花隆氏が発表した「田中角栄研究――その金脈と人脈」は、まさにそういう歴史的な事件だった。

戦後史を振り返ると、60年代まではジャーナリズムの社会に対する影響というものは、オピニオン・リーダー的な評論家や知識人が政治や社会問題について、チクリと気のきいた名句(例えばテレビ時代を迎えた時の評論家・大宅壮一氏の「一億総白痴化」)などによるものだった。それを劇的に変えたのが、「田中角栄研究」だった。
この少し前、たまたま米国では、ワシントン・ポスト紙がニクソン大統領陣営による大統領選挙不正事件(ウォーターゲート事件)を、綿密な証言収集や証拠資料収集によって暴露し、現職大統領を辞任に追い込むきっかけを作り注目を集めていた。公的な捜査や調査に頼らない「調査報道」の力の大きさを示すものだった。だが、立花氏はその事件に影響を受けたわけではなかった。偶然、時期が重なっただけだった。時代の要請が国境を越えて共通のものになっていたと言おうか。歴史の興味深いところだ・・・

・・・しかも氏が強調したのは、単に金脈事件の暴露を羅列したのではない、自民党全体を含めての「金脈の全体的な構造」を、徹底的に資料を漁(あさ)り、証言を集め、それらを分析して解明することを目指したということだった・・・