オリンピック開催の判断の意味

6月12日の朝日新聞オピニオン欄「五輪はどこへ」、佐藤俊樹・東大教授のインタビュー「中途半端な国、日本」から。
――「やると決まっているからやる」に見えます。
「日本社会は『撤退戦』がとても苦手です。日中戦争や第2次世界大戦もそうです。撤退や方向転換した方がよい状況になっても、やめられずに損害を出し続ける。何かをやるときには損得勘定をきちんとした上で、『どういう状況になったらやめるか』を明確にする必要があります。でも、『そういうことをちゃんと考えていますか?』と聞くと、後ろ向きな消極派呼ばわりされます」

――政治家の能力の問題でしょうか。
「一つは、日本の公共部門の小ささでしょう。迅速にデータを分析し、政策に反映するという作業をする態勢は弱体化しています」
「もう一つは、政治家が『やるべきこと』の変化に対応できていないからだと思います。長い間、政治はパフォーマンスが重要で、有権者もそれに反応してきました。『政治ショー』が通用したのは、政治がどうあれ、社会の一定の秩序や豊かさが維持される前提があったからです。だから政治家も本当に『命にかかわる重大な決定』をやらずにすんできた。ところが新型コロナによって、政治家の決定は、生活や命に直結するものになった。でも与野党ともにそういう経験がなく、従来の『政治ショー』のスタイルをやめられないようです。東日本大震災でも、当時の民主党政権は党内の政争に明け暮れ、有権者の怒りを買いました」

――五輪や新型コロナ対策についても、政治に対して厳しい目が向けられました。
「問題の深刻さを共有しているように見えないことが、不信感の大きな要因でしょう。今の日本にとって五輪開催と新型コロナ対策はそれぞれ、国の総力をあげて取り組むしかない大きな課題です。両方やろうとすれば『二兎(にと)を追う』ことになる。だから、政府や自民党が『開催』にこだわればこだわるほど、感染対策に本気で取り組んでいないように見えます。そもそも、今の日本には、二兎を追うことは難しい」
――なぜですか?
「日本はもはや、大国ではありません。高度成長期であれば、もしかしたら二兎を追うことも可能だったかもしれません。でも、少子高齢化が進み、公務員の数を欧米よりも抑え、増税にも踏み切れない。お金も人も、余裕はないのです。その現実を、正面から受け止めなければなりません」
「それは政治のせいだけではなく、有権者の選択でもありました。もともと日本は公共部門の小さい国だったのに、ちゃんと数値も見ずに『ムダを追及する』といってさらに縮小させた。公立病院は2019年までの10年間で74も減り、明らかにコロナに影響しています。民間病院に公立病院並みのコロナ治療をやれというのが本末転倒で、まず『公立減らしは誤りだった』と認めるべきでしょう。『減量策』自体を否定しているわけではありませんが、選んだのだから結果も自己責任。二兎を追うことは、最初からすっぱり諦めるべきだったんです」