5月31日の日経新聞、芹川洋一・論説フェローの「なぜコロナに敗れたのか」から。
・・・思えば日本という国家の劣化をあらわしているのではないのだろうか。1945年の敗戦、90年代の経済敗戦、そしてこんどが3度目のコロナ敗戦だ。
第一の「緩い」のは制度である。法体系がそうなっている。欧州型は厳しい人権の制約がある。同時に厳しい統制もある。日本は個人への規制も行政への統制も緩やかだ。
憲法には私権を制限する緊急事態条項がない。改正後のコロナ対策の特別措置法も強い罰則はない。個人をしばるのは空気という無言の同調圧力である。法律しばりではなく世間しばりだ。
個人の権利を優先する考え方の背景には、政府が個人情報を管理することへの強いアレルギーがある。国家に対する抜きがたい不信感によるものだ。それが行政のデジタル化をおしとどめている要因でもある。
行政の対応も緩い。ワクチン接種予約の受け付けでも差をつければよいものを、それはしない。平等にやろうとして電話回線がパンクして、混乱を助長する・・・
・・・第二の「ばらばら」は運用の問題だ。90年代からの政治改革と省庁再編・内閣機能の強化をつうじて、政府と自民党による二元体制をあらため、首相官邸に権力を集中するかたちを整えた。しかしコロナの対応では、やはりうまく回らない・・・
一義的には厚労省の対応のまずさによるものだが、官邸が全体と流れをつかんでチームとしてまとまって手を打つことができないでいる。
国と地方の関係もギクシャクしどおしだ。とくに国と東京都の意思疎通の悪さは目をおおわんばかりである。
割拠主義はある意味で、どこの組織にもある話だが、それを乗りこえて権力を一元化し、統一的な運用をめざす政治の運びが道半ばだということを今回、いやというほど思い知らされた・・・
・・・第三の「呑気」は人の問題だ。政治家の危機意識の欠如である。特措法の改正などにしても国会がなかなか動かなかった。安倍内閣で安保法制をまとめ防衛上の危機への備えは一応進めたものの、感染症にはまったく備えがなかった。
準備がないから対応はどうしても場当たり的になる。最悪の状態を想定しそこから危機をいかに最小化し管理していくかに失敗する・・・