5月29日の朝日新聞読書欄、阿古智子さんによる「教室における政治的中立性」について。
・・・ 対立や問題からこそ、学びが生まれる。より多くのことを知り、理解できるようになるというのに。
人々が均質的な共同体に移行し、政治的対立に反対する傾向は、アメリカでも顕著だという。分裂した社会では、政治が二極化しやすく、重大な問題への解決策を生み出せなくなる。
著者は社会に「適合する」ことを示唆する「公民教育」と学校の外の政治的世界に真っ向から取り組む「民主主義教育」を区別し、横断的な学びを模索する。
イデオロギーが「左」または「右」に傾く学校でも、生徒たちは多くの問題への態度を決めきれず、そこに論争的な問題の議論の余地を見いだしていた。日本の多くの学校現場では、政治的中立性維持のため、教師は意見を伝えるべきでないとされるが、本書は、教師の意見表明が生徒の学びに及ぼす影響や効果を実証的に明らかにした・・・
・・・生徒全員が同性婚の合法化に反対というキリスト教の高校の教師は、卒業後の世俗的な環境(大学など)に向けて、生徒が自分で考える力を育てようとした。重要な問題を、他人任せにしてはならないからだ。
学校が論争的な政治問題を教えることをためらうならば、民主主義の担い手が育たない。公共の課題に対する熟議が進まないことは言うまでもない・・・
政治をできあがった制度として教えるだけでは、民主主義を教えることはできません。「無菌培養」で育てた生徒を、「細菌」がいっぱいある社会に放り出すことは、罪です。「細菌」には、善玉菌も悪玉菌も、無害なものもあります。しかも、その「細菌」は避けることはできない、いえ避けずに参加して、判断しなければならないのです。