5月14日の朝日新聞オピニオン欄、山腰修・慶応大学教授の「ジャーナリズムの不作為 五輪開催の是非、社説は立場示せ」が興味深かったです。
・・・「ジャーナリズムの不作為」という言葉がある。メディアが報じるべき重大な事柄を報じないことを意味する。例えば高度経済成長の時代に発生した水俣病問題は当初ほとんど報じられなかった。このような不作為は後に検証され、批判されることになる。
ジャーナリズムは出来事を伝えるだけでなく、主張や批評も担う。したがって、主張すべきことを主張しない、あるいは議論すべきことを議論しない場合も、当然ながら「ジャーナリズムの不作為」に該当する。念頭にあるのは言うまでもなく、東京五輪の開催の是非をめぐる議論である・・・
・・・この段階に至るまで、主流メディアは「中止」も含めた開かれた議論を展開したとは言い難い。例えば、5月13日現在、朝日は社説で「開催すべし」とも「中止(返上)すべし」とも明言していない。組織委員会前会長の女性差別発言以降、批判のトーンを強めている。しかし、それは政府や主催者の「開催ありき」の姿勢や説明不足への批判であり、社説から朝日の立場が明確に見えてこない。内部で議論があるとは思うが、まずは自らの立場を示さなければ社会的な議論の活性化は促せないだろう・・・
・・・かつて6年近く朝日の論説主幹を担った若宮啓文は、社説を「世論の陣地取り」と位置づけた。社の考えや価値観の理解・支持を広げていく手段、というわけである。こうした点からすると、五輪をめぐる朝日の社説は「陣地取り」に完全に失敗している・・・
・・・ただし、「世論の陣地取り」の仕方も時代に合わせて変化が求められる。かつてのように主張を一方向的に伝えても、多くの人々に届かない。不確実性の高まる社会では、自らの主張が「正解」である根拠を見いだすことが難しい。間違いを指摘されるかもしれないし、批判されるかもしれない。
だが、そうした指摘や批判に耳を傾け、応答しながら柔軟に修正を積み重ねるような社説でも良いのではないか。「言いっ放し」ではなく耳を傾ける姿勢が、ソーシャルメディアの時代では共感や理解を得る手段となる。いわばそれは社会との対話によって議論を発展させる新しい社説の形である・・・