「戦後民主主義の罪、2」の続きです。2つ目は、建て前と本音の使い分けです。
2 建て前と本音の使い分け
憲法に書かれたことを理想と掲げつつも、実生活では違ったことをしています。そして、それを変だと思いませんでした。
例えば男女同権は、日本型雇用慣行ではまったく適用されませんでした。女性社員は男性社員の補助として扱われ、結婚したら退社を余儀なくされました。女性議員や女性管理職の少なさは、世界でも突出しています。
結婚は両性の同意に基づくといいつつ、親が決めたり、親が反対することも続きました。
日本では、憲法という建前の世界と、世間という本音・実態の世間の2つがあります。世間とは、日本社会の集団主義であり、個人を縛る力です。前者は、個人が主体で、権利と義務があり、もめるときは法律で決め、裁判で決着をつけます。後者は、個人より先に世間があり、法律ではなく世間常識が規則です。もめたときは、裁判ではなく、お詫びで片をつけます。
会社でも社会でも、「世間の常識」に従うことが要請され、時に強要されます。「空気を読め」とです。それに反する行動をした場合は、「世間をお騒がせしました」と謝罪を要求されます。
新型コロナウイルス感染症拡大の際に、外出や会合そして会食の制限が私権の制限であるにもかかわらず、法律ではなく自粛要請で行われます。そして自粛要請に従わない店や利用者を「取り締まる」のは、警察ではなく、匿名の個人の批判なのです。公務員が自粛要請に反し、夜遅くまで大勢で会食をした際におとがめを受けるのは、コロナ特措法違反ではなく、信用失墜行為としてです。
「変な平等主義」も、この延長にあります。平等が主張されます。それはもっともなことです。ところが憲法が定めた平等は、法の下の平等扱いであって、現実には各人は平等ではありません。身長、体重、運動能力、性格、趣味などなど、人は平等ではありません。「順位を付けない運動会」は、「変な平等主義」の表れでしょう。
目立つ人をやっかみます。エリートの存在を許さず、足を引っ張ります。しかし、そのような人たちがいないと、社会がうまく回らないことも事実です。エリートの存在を許さないのに、彼らが職責を果たしていないと批判します。官僚批判には、このような面があります。
この項続く。