人を評価することは、自分を評価されること

若い時に、職員の採用面接を担当したことがあります。職員採用の責任者である先輩から、「しっかり見てくれよな。採用予定者を幹部面接に出すと、今度は私の人物眼が査定されるのだから」とハッパをかけられました。なるほどと思いました。

私は採用されて最初の配属先が、徳島県財政課でした。いくつかの部局を担当して予算を作ります。次の配属は自治省財政課で、これは交付税の単位費用をつくる査定も仕事でした。その後、鹿児島県財政課長、自治省交付税課長補佐、総務省交付税課長と、予算査定に長く携わりました。
予算査定を続けていくうちに、これも同じだと気がつきました。
初めのうちは、膨大な要求を受け(当時はまだシーリングがありませんでした)、それを切るのが仕事だと思っていました。先輩や同僚に「要求ないところに査定なし」「疑わしくは罰する(予算をつけない)」といった「勇ましいセリフ」を教えられ、実行していました。
しかし、だんだんと釈然としなくなりました。「削るだけなら、電卓に0.9を入れて、要求額に掛けていけば収まるではないか」とです。

できばえの良い予算とは、知事に喜んでもらい、県民にも喜んでもらえる予算です。そして、要求部局に喜んでもらえないとしても、納得してもらえる予算です。
それは、数字だけでは見えません。要求側と何度も意見交換をして、その事業の効果を調べるだけでなく、相手側の本音を聞くことも重要でした。簡単に言えば、要求通りにつけるのなら、議論はなくてもすみます。つければ、喜んでもらえます。

重要なのは、要求通りにつけることができない場合に、どのように納得してもらうかです。
先輩たちが「日頃の人間関係が重要」「事前に現場を見ておくことが重要」といった教えのほか、「君の全人格的闘いだわな」と助言をくれました。
査定官は、予算査定結果という予算書で評価されるとともに、査定の過程で人格識見を評価されているのだと気づきました。
このような経験と見方の積み重ねで、「蟻の目と鷹の目」「全勝Aの後ろに全勝Bがいて、Aを監視する」「閻魔さまの前で、どう説明するか」「周囲の人は私をどう見ているか」といった、私のものの見方ができました。