7月29日の読売新聞、鈴木浩三さんの「疫病流行 江戸の緊急給付 迅速…銭や米、5~12日で 積立金や町人自治組織の力」から。
・・・江戸時代の日本はたびたび感染症に襲われた。天然痘や麻疹のほか、19世紀頃からは、インフルエンザとみられる「風邪」の流行が目立つようになった。
感染症の大流行や災害などの際には、江戸に住む、行商人や日当で生活する職人など、当時「其日稼」と呼ばれた人々に対して、銭や米が緊急的に配られた。この給付は「御救(おすくい)」と呼ばれた。
疫病流行に限っても、別表のように、頻繁に給付されている。人口100万といわれる江戸で、武士をのぞくと人口は60万人ほど。そのうちの半数が対象となっている。これほど対象が多いにもかかわらず、1802年のインフルエンザ流行では、3月17日に給付を決めてからわずか12日で配り終えた。21年には、2月28日の決定で、実質5日で給付を完了している。
このスピードの背景には、安定した財源と、必要とする人々の情報を正確に把握できる仕組みがあった・・・
・・・財源となる「七分積金」は、18世紀後半の天明の大飢饉ききんで、其日稼らによる大規模な打壊うちこわしが江戸で発生したことを受けて、1791年に創設された。江戸の町人(地主)が毎年約2万5900両を拠出し、幕府も基金として2万両を出資した。今でいうファンドに相当し、疫病、飢饉や災害時の緊急的な給付「御救」に備えて備蓄し、ふだんは地主向けの低利融資などで運用されていた。
こうした給付や運用を担う組織「江戸町会所」は、幕府の監督下ではあったが、武士ではなく、有力商人である「勘定所御用達」10人や、町人たちの代表「肝煎名主」6人が実質的に運営した。
当時の江戸の「町」は、人別改(住民の管理)、防火・消防、市区町村税に似た都市の維持管理費「町入用」の徴収のほか、簡単な民事訴訟や祭礼まで行い、現代の市区町村よりも大きな権限を持つ自治組織だった。平常時から、町組織を代表する名主や、その配下に位置づけられた大家などを通じて町内の住民たちの家族構成や職業、収入状況などをきめ細かく把握していた。だからこそ、いざというときに銭や米をすばやく給付することができたのだ。
町の上部には、武士である南北町奉行2人と、その配下の330人の与力・同心たちがいたが、彼らだけでは、とても数十万人の都市住民の暮らしを把握できない・・・