テレワークの短所

7月27日の日経新聞、西條都夫・編集委員の「一過性で終わらせない 希望と不安のテレワーク」から。テレワークの長所と短所が並べられています。

・・・これがテレワークの理想像とすれば、他方で負の側面も浮かび上がった。現時点で明確になったマイナスは2つあり、一つは(田中社長の感想とは正反対の)生産性の低下、もう一つは働く人の不安の増大だ。
前者については6月の内閣府の調査で「仕事の効率が上がった」と答えたテレワーク経験者が9.7%だったのに対し、「下がった」は47.7%に及んだ。他の調査でも同様の結果が出ており、これが緊急事態宣言解除後にオフィス回帰が急速に進んだ理由である。
背景にあるのは、「コロナによって、突然余儀なくされたテレワーク」による準備不足だろう。テレワーク研究で有名な米スタンフォード大のニコラス・ブルーム教授は生産性の足を引っ張る最大の要因は「子供」だという。
「うちにも4歳の男の子がいて、パパが家にいると遊んでほしくて書斎に乱入してくる。これは生産性の大きな妨げ」と教授はいう。ほかに「自室がなく家族共用の食卓で仕事をする」「通信状態が悪い」といった要因も大きく、家で働くための環境整備がテレワークの成果を引き出す前提条件であることが分かる。

「不安」については、職場における基盤が弱い若年層がより強く感じているのが特徴的だ。例えばパーソル総合研究所の調査によると、見えない場所で仕事をするので「上司から公正に評価してもらえるか不安」という人は50代では23%にとどまったのに対し、20代は43%に達した。
全員が会社に来ない一斉テレワークより、来る人と来ない人が混在する「まだらテレワーク」のほうが不安を助長するというデータもある・・・
・・・コロナによるテレワークの機運が一過性で終わるのは、やはり惜しい。日本経済の直面する人手不足やワークライフバランスの改善などの課題解決にテレワークは威力を発揮する。マイナス面を抑える取り組みが企業には求められる・・・

政治における委任とリーダーシップ

月刊Voice8月号、河野勝・早稲田大学教授執筆「政治における委任とリーダーシップ」から。この論考は、いくつかの新聞論壇時評で取り上げられています。

・・・冒頭で述べたとおり、今日では政治リーダーがさまざまな専門家からアドバイスに支えられることは不可避であり、コロナ危機はそれを誰の目にも明白にした。しかし、アドバイザー体制を構築することで、リーダーの責務が終わるのではない。政治のリーダーシップが本来発揮されるべきは、まだその先である。
現代における政治のリーダーシップとは何か。筆者は、優れたリーダーを測るのは「その人でなければできない」という素質を持っていることが、もっとも重要な基準であると考えている。集められるかぎりの情報を集めさえすれば、そのなかから自ずと答えが出るような意思決定に、リーダーは要らない。情報を集める前に独断専行で決定に及ぶのは、論外である。
集められる情報をすべて集めるアドバイザー体制を整えることは、もちろん重要である。しかし、そのような体制づくり事態は、「その人でなければできない」ことではなく、いってみればそれは優れたリーダーであるための前提条件に過ぎない。

「その人でなければできない」決断は、集められる情報をすべて集めたうえでも答えが出ないときに、はじめて必要となる。そのような場面において、BでなくAの選択肢が正しいという判断を何らかの根拠に基づいて行い、しかもそれを周りの人たちに納得させることができる能力と信頼が備わっていること、それが現代のリーダーシップの本質ではないかと考える・・・

連載「公共を創る」第50回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第50回「日本は大転換期―うまくいかなかった平成時代」が、発行されました。

前回に引き続き、平成の地方分権改革について、その位置づけを説明しました。
そして、平成時代の総括を述べました。一言でいうと、昭和後期が「思ったよりうまく行った時代」であり、それに対し平成時代は「思ったほどはうまく行かなかった時代」と言えるでしょう。

その間に、日本人は変わっていません。そして、国民も、企業も、政治も行政も、その時々の課題に精一杯取り組みました。しかし、昭和後期はうまくいって、平成時代はうまく行かなかったのです。
なぜか。それは、科学技術発展の時代背景、国際環境、他国の状況など、昭和後期は「例外の時代」だったのです。他方で、平成時代には、私たちは課題と対応策を間違えたようです。昭和の延長に発展はないのに、まだ続くと考えていたのです。発展途上社会と成熟社会では、課題が異なるのです。
この問題は、令和時代の私たちの宿題です。それを意識して、この連載を書いています。次回からは、その話に移ります。

コロナ経済危機、雇用調整助成金と失業保険

7月22日の日経新聞経済教室、八代尚宏・昭和女子大学副学長の「休業手当より失業給付重視を あるべき雇用政策」から。

・・・今回のコロナ危機では、2008年のリーマン・ショック時と比べ、失業者の増加が著しく抑制されていることが特徴だ。政府の自粛要請に基づくサービス業主体の中小企業の休業増加に対応して、従業員への休業手当を補助し、解雇を防ぐ雇用調整助成金が大幅に拡充された要因が大きい。
具体的には対象事業主の拡大や受給要件の緩和と、中小企業への休業手当の助成率を100%近くまで引き上げたことなどだ。この結果、コロナ不況の影響が最初に表れた20年4月の失業率は前年同月比0.2ポイントの上昇にとどまった。
代わりに休業者数が前年比420万人も増えるという異常な状況が生じた(図参照)。仮に19年平均を上回る休業者の増加数がすべて失業者になっていれば、失業率(図の修正失業率)は9%台に達していた・・・

・・・もっとも、これは雇用調整助成金内での整合性にすぎず、肝心の職を失った労働者が直接申請する失業給付との間には大きな不均衡がある。現行の失業給付は、低賃金労働者を除けば、ほぼ賃金の5割で日額8330円(月額18万円)が上限と、休業者への直接給付の半分程度だ。
つまり類似の生活保障給付なのに、政府の自粛要請で休業中の従業員と、企業の倒産・廃業で失業した従業員との間には、2倍もの格差がある。もともと雇用調整助成金による休業手当と失業給付の上限額は同じだったが、失業率に影響しない休業者の増加を優先するという政治判断によって新たな不均衡が生じた。
また企業に代わり、その従業員が政府に休業手当を申請できることは、事業主にとって、休業手当を支払わなくてもよいというモラルハザード(倫理の欠如)を誘発する・・・

・・・今回、雇用調整助成金の対象範囲を拡大し、本来の雇用保険の被保険者でない短時間労働者の休業も対象にしたことは注目される。これは現行の雇用保険の枠組みを用いて、より多くの非正規労働者を救済し、その費用は国庫から補填するという現実的な工夫だ。
もっとも、外的な経済ショックに現行の雇用保険だけで対応するには限界がある。コロナ危機で所得水準が前年より大きく落ち込んだ個人を対象とした当初の30万円の給付金は、補完的な所得補償を目的としたものだった。だが全国民を対象とした一律10万円の定額給付金に置き換えられたため、膨大な財政コストと不毛な行政事務を招いた。
こうした財政の浪費を繰り返さないためにも、欧州の動向に倣い、フリーランスや学生アルバイトなどにも幅広く失業給付の対象を拡大することで、より普遍的な雇用維持策の機能拡大を図る必要がある。
コロナ危機は継続する可能性が高い。一方で、企業に依存しない働き方の多様化も広がっている。今後は「企業が雇用を守り、その企業を政府が守る」という労働者保護と企業保護が混在した雇用調整助成金の政策目的を、本来の労働者保護に徹底させるべきだ・・・

詳しくは原文をお読みください。

政治発言をしてはいけないのか

7月22日の日経新聞夕刊グローバルウオッチは「有名人、政治発言はタブー?」でした。
・・・「もう我慢の限界だ。『黙ってろ』なんて言わせない」。ネットフリックスで配信されているドキュメンタリー「ミス・アメリカーナ」で米人気歌手のテイラー・スウィフトさんが怒りをあらわにしながら語る。2年前の2018年、米中間選挙で民主党への支持を公表する前に、共和党候補者に批判的な心情を明かした場面だった。
スウィフトさんはそれまで政治的な発言をしてこなかった。過去を振り返って、「私には恋愛の歌しか求められていないと思っていた」と笑う。政治的な発言を避けてきたのには理由がある。イラク戦争直前の03年、当時のブッシュ大統領を批判した女性カントリー音楽グループのディクシー・チックスは「反アメリカ」や「裏切り者」と激しく非難された。スウィフトさんはデビュー当時、音楽レーベルや出版社から「ディクシー・チックスを反面教師にしろ」と指導されたと明かす・・・

・・・日本でも有名人の政治的発言が注目される出来事があった。検察官の定年を延長する検察庁法改正案が国会に提出されると、法案への反対意見がSNS(交流サイト)上で多数あがった。歌手や俳優など有名人が「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグを付けてSNSに反対意見を投稿した。スウィフトさんが政治的発言をした時のように、有名人の投稿には賛成と批判の両方の声が寄せられた。
中でも人気歌手きゃりーぱみゅぱみゅさんの同法案を批判する投稿には賛同の意見があった一方で、批判の投稿も相次いだ。その中には、「政治的発言をすべきではない」といった、発言そのものを否定するものが多かった。きゃりーさんは結果的に投稿を削除するに至り「今後は発言に責任感を持って投稿していきます。失礼致しました」と釈明した・・・

・・・政治的発言をすること自体にバッシングがあったのはなぜか。メディア論が専門の成蹊大学教授の伊藤昌亮氏は「政治はプロフェッショナルが担うものだという考えが日本では強い」と語る。「複雑な政治の世界の外側にいると見なされている有名人は、参入資格がないとみられている」と指摘する。
社会運動論が専門の立命館大学の富永京子准教授は「日本では社会運動が社会を変えるという感覚がそもそも薄い」と話す。日本を含めた7カ国の満13~29歳の若者を対象とした意識調査によれば、「私の参加により社会現象が少し変えられるかもしれない」に「そう思う」と「どちらかと言えばそう思う」と回答した割合は日本は30.2%にとどまった。米国は52.9%と最も高く、隣国の韓国も39.2%と日本より高かった。

そのうえで富永氏は「日本人は『自分の行動によって政治が変わる』といった感覚が薄い」と指摘し、有名人のSNS上での政治的発言に対しても否定的なのではないかと分析する。
米国でも日本でも有名人が政治的立場を表明することはあり、意見を異にする人から批判が出る。ただ「米国では『そもそも政治的発言をするな』といった批判は少ない」と米国政治に詳しい東洋大学教授の横江公美氏は語る。政治的発言をすることは有名人にとっていわば社会的責務だと指摘し、「米国は二大政党制が根付いており、政権交代が機能している。政治的立場の表明によって、一方の党の支持者から嫌われるかもしれないが、それで『干される』ことはない」と話す・・・

政治発言に対して、反対派から批判が出ることは普通のことでしょう。また、事実誤認などは正されて当然です。問題は、政治発言をすること自体への批判です。
民主主義とは、意見の異なる人が議論して、一定の結論を得る仕組みです。意見、特に反対意見を表明してはいけないなら、民主主義は機能しません。私は、有名人を含め政治発言を批判する発言は、民主主義の観点から厳しく批判すべきだと考えています。政治家もマスメディアも、もっと取り上げるべきです。
日本社会論として論じるなら、記事でも書かれているように「政治は専門家に任せておけば良い。一般人は投票にだけ行けば良い」という認識が強いのではないでしょうか。
教育現場においても、政治は制度の説明や歴史を教え、現実政治や政治的議論は避けてとおるようです。それでは、民主主義の運用を教えることにはなりません。