鎌田先生解説、ウェゲナー著『大陸と海洋の起源』

鎌田浩毅先生が今度は、ウェゲナーの『大陸と海洋の起源』(2020年、講談社ブルーバックス)の解説を書かれました。本文は、竹内均先生が1975年に翻訳されたものです。
大陸が移動するという話は、現在ではみんなが受け入れています。しかし、ドイツの科学者ウェゲナーが1915年に原著を出版したときは、荒唐無稽な説として相手にされませんでした。半世紀後に認められ、復活したのだそうです。ただし彼は、1930年に亡くなっています。

鎌田先生によると、この本は 科学の古典なので、「古典らしく」とても読みにくい本だそうです。そこで、先生の解説が役に立つのです。P348に、科学の古典の読み方が指南されています。
科学の古典を、私たちは常識として受け入れていますが、その多くは、当時としては通説に刃向かう「異端」でした。なぜ、彼は通説を疑ったのか。そして、どのようにして通説を覆したのか。そこには、ドラマと苦労があります。コペルニクスもガリレオも、ダーウィンも。

武田信玄は「動かざること山のごとし」を掲げましたが、「造山運動」という言葉があるように、地球科学者は「ゆっくり動くこと山のごとし」と考えているのだそうです。信玄公も私たちも、1年とか10年の単位で、山を見ていますからね。
ウェゲナーの大陸移動説から、プレート・テクトニクスという「地球科学の革命」が誕生したこと、さらに地球科学は発展していることも、解説されています。20世紀の地学、いえすべての地学の中での、革命的発想だったのですね。

コロナ対策、専門家に任せることと任せられないこと

4月9日の朝日新聞オピニオン欄、松尾陽・名古屋大学教授の「コロナ対応、最適解どこに 専門知の力と限界、認識を」から。松尾教授は、コロナウィルス対応が財源や時間という限られた資源を浮き彫りにしたことを指摘した後、法的資源について述べます。
・・・しかし、日本は法治国家であり、「命令」などの強制処分は法律の根拠に基づかなければならない。現行の法制度では、少なくとも強制権限の発動の機会と手段は限られている・・・現時点で利用可能な法的な手段は何かを正確に把握することが大切であり、これ自体も専門知なのだ。海外の状況や政策を参照する際も、日本に導入可能なのかを検討する必要がある。法律改正には、憲法上の限界も存在する。
限られた資源の中で多様な専門知を活用して、最適な解を探求しなければならない・・・

・・・ところで、立憲主義は、人びとの自由を守るべく、公権力の恣意的な行使を抑制しようとする理念である。これを基盤とする日本国憲法は、基本的には、最適な解を探求する積極的な装置というよりも、最悪の解を避ける消極的な装置としてデザインされたといわれる。
しかし、日本国憲法の文言は抽象的であり、すべての事項について規定しつくしているわけではない。感染症対策で社会的な距離が求められる状況下での、国会や閣議のあり方も規定されているわけではない。そのような未規定の領域のあり方は、人びとがどのように統治システムを運用していくのか、また、どのようなシステムを期待し評価していくのかにかかっている。これは、統治システムにおける専門家の活用のあり方においても同様である。

専門家は万能ではない。にもかかわらず、人びとが専門家に万能さを求めてしまえば、専門外のことにも簡単に答えてくれる「万能な」専門家が、統治システムや社会の中で重用されることになってしまうだろう。
専門家を適切に尊重するというのは、専門家の領分を適切に認識し、その専門家にも答えられない領域があることをわきまえることだ。自分で考えなければならない領域に向き合うことには不安が伴うが、それが自律や民主政への第一歩である・・・

コロナウィルスが明らかにすること2

コロナウィルスは、各国のお国柄の違いや政府の対応の違いをも、見せてくれます。医療体制の充実度の違い、政府による国民の行動制限措置の違い、国民の遵守の違いなどなど。
政府と国民との関係も見えてきます。国民に厳しいことを言える国と、言えない国との違いも。罰則をもって、外出を規制する国もあります。国民の生活や経営困難に対して、どのような金銭的支援をするか。マスクを配るかなどにも、違いが出ます。

4月9日の日経新聞オピニオン欄、村山恵一・コメンテーターの「コロナと戦えるIT社会 問われるプライバシーの感度」は、各国のコロナ対応にIT(情報通信技術)を用いる違いと、個人情報保護について書いていました。主旨はITの活用ですが、ここでは次の部分を紹介します。
・・・そしていま避けられないのが、個人データの活用を巡る議論だ。
世界を見渡すと個人の移動や居場所、体調などのデータをさまざまな方法で集め、感染の抑えこみに使う動きがアジア、欧州に広がる。強力な武器だが、懸念もある。中国のシステムは国家監視の色彩が濃い。韓国では無関係な個人情報まで漏れ問題化した・・・

病気を押さえ込むために、ITを使って各人の行動を監視することと、個人情報保護とをどのように両立させるか。議論が続くでしょう。

村山さんの記事の主旨に戻れば、戦争中に関連する技術が大きく進歩します。勝つために、お金や技術者を動員するからです。今回の病気との闘いも同様でしょう。お金と技術者がつぎ込まれます。そして、新しい技術とその実装が進みます。
そこに、新しい技術と社会生活をどのように折り合いをつけるかが、問題になります。これは科学技術の問題でなく、政治社会の問題です。そこに、各国のお国柄の違いが出てきます。

振り返る「失われた20年」

朝日新聞「変転経済」取材班編「失われた〈20年〉」(2009年、岩波書店)を読みました。
小峰隆夫著『平成の経済』に続いてです。改めて「失われた20年」を勉強しようと有識者に聞いたら、この本を推薦してくれました。この本も、優れものです。

経済復活のために取られた、いくつかの政策や企業の判断が取り上げられ、その経緯と日本社会に及ぼした影響が具体的に描かれています。
朝日新聞の記事を、加筆編集したものです。そのような本は、しばしば記事を集めただけで、筋が通っていないことが多いのですが。この本は、かなり編集しているようです。わかりやすいです。

2009年と10年前のものですが、失われた20年の雰囲気がよく伝わってきます。当時を知っている人は、思い出すために。当時を知らない人は、勉強のために。お勧めします。

コロナウィルスが明らかにすること1

コロナウィルスが収まりません。この病気の特性から、しばらく続くと予想されます。早く収まってくれるとよいのですが。マスコミ、識者、いえ1億人が関心を持って、意見を述べています。私も、いろいろ考えるところがあるのですが、おいおい書きましょう。

今日取り上げるのは、この病気、そして取られている営業自粛、学校や保育園などの閉鎖が、社会的弱者に大きく被害をもたらすことと、それが明るみに出ることです。
例えば、4月8日の日経新聞オピニオン欄、小竹洋之・上級論説委員の「コロナが照らす世界の暗部 弱者の痛み深刻に」。

日本でも、いろんな報告がされています。
母子家庭のお母さんが働けなくなって困っていること、給食がなくなり貧困家庭の子どもが困っていること(貧しくて学校給食だけがまっとうな食事という子どももいるそうです)、学校が休校で困っている家庭(幼稚園や小学校、学童保育がなくなると、小さな子どもを預かってくれる場所がありません)、外出できず家庭内暴力がひどくなること、ネットカフェで寝泊まりしている人が行くところがないこと、雇い止めにあった人が宿舎も追い出され困っていることなどなど。

災害、特にこのように長期に社会活動が制限される疫病の場合は、ふだん隠れている社会的弱者が見えることになります。
大震災などの時もそうなのですが、大震災と疫病とは大きく違います。大震災の場合は被害自体は瞬間的に起き、課題は被害が起きてから被災者特に弱者をどう支援するかなのに対し、疫病は災害自体が長期間にわたって続くことです。

政治が取るべきことは、
1これら困っている人に、助けの手を差し出すこと
2今回の災害で明らかになった「社会的弱者」を、平時にも支援する制度と組織を作ることでしょう。
このようなときに、政府の力量が試されます。