双葉郡町村議員研修会で講演

今日は、双葉郡町村議会議員研修会で、話をしてきました。
原発事故で避難指示が出た双葉郡。順次、避難指示が解除され、にぎわいが戻りつつあります。しかし、まだ帰還できない地域もあります。また、指示が解除された地域でも、住民が戻っていない地域もあります。
議員さんたちは、様々な意見を持った住民の中で、苦労しておられます。ご自身も、被災者であり、帰還できず避難している方もおられます。

これから、どのようにしたら、残る区域を避難解除できるか、解除した地域ににぎわいを取り戻すことができるか。簡単に答えが出る課題ではありません。
関係者の方と知恵を出し、国として責任を果たす方策を続けなければなりません。
今日は、少々難しいお話しでした。

対立する立場の調整、トリチウム水の処理、2

対立する立場の調整、トリチウム水の処理」の続きです。
利害が対立する課題を、どのように決着をつけるか。安東さんは、避難指示が出た区域での、避難指示解除の事例を紹介します。田村市都路地区です。

まず、政府職員が、現地で暮らした場合の放射線量を測ります。個人線量計を住民にも貸し出し、測ってもらいます。そこで、放射線量が高くないことが確認されます。

避難指示解除決定の直前に、住民への説明会が開かれます。そこでは、解除を求める住民と反対する住民がいて、意見は平行線をたどります。議論が膠着したときに、区長の一人が「そもそもは政府が決めた避難指示だ。解除も政府が決めてくれ」と述べ、政府職員がそれを受けて「解除を決定する」と引き取ります。

・・・そもそも、利害が異なる中で、すべての人間が満足し、納得する判断を行うのは不可能であろう。重要であったのは、ある時点での賛成・反対の結論を一致させることではなく、一定の方向性を模索しながら、最大公約数として、それでよかったと思えるように努力していくことではないだろうか。「それでも、振りかえってみれば悪い選択ではなかったのかもしれない」と思える状況を作り上げていくことが、結果としての利害調整を可能としたように思える・・・

自然科学の世界と違い、世間の問題では唯一の正解があるとは限りません。人によって、考え方が異なるからです。どこかで結論を出して、妥協するしかありません。
その際の「正しい方法」は、十分な手順を踏むこと(手順)と、将来振り返ったときによかったと言えるかどうか(内容)だと、私は考えています。
この項続く

日本の移民政策

2月18日の日経新聞経済教室、田所昌幸・慶応義塾大学教授の「移民問題を考える(下) 存在公認し支援体制 早期に」から。

・・・実は日本には国際的には移民と呼んでもおかしくない人々が既に相当数居住している。例えば国連の統計は、原則として外国生まれの居住者を移民と定義しており、日本の移民のストックは19年時点で約250万人とされる。人口の2%程度で、ほぼ京都府の人口に匹敵する規模だ・・・

・・・日本だけが世界の例外であることはできるはずもない。移動手段が発達する一方で世界に巨大な貧富の格差がある限り、日本でも移民が増加する趨勢に変化が生じるとは考えにくい。
こうした人々は一定期間後には皆帰国するだろうとの期待は、欧米諸国の経験から判断すると実現しそうもない。ひとたび生活の拠点を家族や同郷の人々と築けば、移民の一定数は確実に居住を続けようとする。
そして平穏に居住している何十万人もの人々を強制的に排除することは、人道や人権の観点から望ましくない。加えて現実には行政的にも政治的にも非常にコストの高い政策であり、よほど日本が抑圧的な政治体制にでもならない限り、まず実行不可能だ。移民を限界的な労働力として使い捨てにしようとすれば、多数派社会に不満を持つ閉鎖的集団が形成され、痛いしっぺ返しにあうだろう。

従って問われるべきは、極端な出入国管理体制により労働鎖国政策をとるか、はたまた国境を開放して日本を事実上解体するかではない。どれだけの移民をどんな条件で受け入れ、いかなる受け入れ体制を整備するのかということだろう。移民は抽象的な労働力ではなく生身の人間だ。賃金さえ払えば済むというわけではなく、これらの人々の生活者としてのニーズにホスト国としてどのように応えるかが重要な課題となる・・・

・・・公式には移民がいないことになっているため、国レベルでの総合的な移民政策が存在しない。そのため、いや応なく対応を迫られる外国人が集住する一部地域の自治体などに、負担が集中している状況を早急に改めるべきだ。受け入れたからには合法的に入国し就業している移民を支援する医療、教育、言語などの基本的なサービスを国レベルできちんと制度化すると同時に、公的サービスへのただ乗りを効果的に防止しないと、制度は持続できない。

とりわけ早期に取り組まねばならないのは、移民2世に対する初等中等教育への就学義務を確実なものとすることだ。言語や社会慣習などの日本社会で暮らすための最低限のスキルを習得することは、社会メンバーとしての基本的権利であると同時に義務でもある。次の世代が出自に関係なく希望を持って日本社会で活躍できる機会を提供することは、高等教育の無償化よりも優先的に公費が投入されるべき課題ではないか。
この面では民間でもできることは多い。欧米社会の教会、ボランティア団体、地域コミュニティーなどを参考に、社会のそれぞれの持ち場で新たなメンバーの支援に取り組むべきだ。

排外的とされることが多い日本社会だが、人種や宗教が移民の社会統合上の障害になる可能性は欧米諸国よりも低いかもしれない。しかし日本には欧米諸国にはない難しい条件もある。それは、移民の最大グループが中国、韓国といった日本との関係が良くない国の出身者であることだ・・・

野村監督に学ぶ夫婦の関係

2月20日の朝日新聞オピニオン欄「ノムさんに学ぶ」
・・・自らを「月見草」に例えた昭和のプロ野球選手の人生がなぜ、グラウンドの外でも、人々の興味をかきたてるのか。「ノムラの教え」から、何を学び取れるのか・・・

橋田壽賀子さんが、次のようなことを指摘しておられます。詳しくは記事をお読みください。
・・・たぶん沙知代さんは野村さんと出会い、「私の言うことを聞く人」と見抜いたんです。野村さんくらいの年齢の男性の女房像は、夫の言うことを聞いて家のことだけやればいい、というのが普通でしょう。でも、野村さんは逆でした。外で勝負の世界に生きているからか、逆に英では助言や叱咤もしてくれる強い女性がいたほうが楽だったのでしょう。言うなりになっている感覚こそが「愛されている」という実感だった・・・

私には、珍しいこととは思えません。日本の多くの家庭では、このようなのではないでしょうか。
外での仕事に全力を使い、家のことは妻に任せっぱなし。自分のことでも、食事も服装も妻任せです。これまでは、これが理想像でした。
財布を妻に渡している夫が多いです。その段階で、力関係は歴然としています。「亭主関白」は外面だけで、家では妻の方が強いのです。夫を「夫唱婦随」などとおだてて、実権を握る。女性は上手ですわ。
問題は、夫がその力関係に気づかず、ムダな抵抗をすることです。私も、もっと早く気づくべきでした。

それぞれの人の判断ですが、結婚は人生を豊かにしてくれ、かつ人生修養にとって、ほかにはない場です。
さらに上はいます。悪妻の方が、夫が出世するという事例です。これについては、また別の機会に。

カタカナ日本語、イベント

厚生労働省が、新型インフルエンザ対策として「イベントの開催に関する国民の皆様へのメッセージ」(2月20日)を出しています。
このことに、異論はありません。未知の病気に対して、十分な対応をしなければなりません。私が指摘したいのは、その際の日本語です。

なぜ、ここで「イベント」というカタカナ語を、使うのでしょうか。この場合に適合する日本語に、催し、催し物、行事があります。
「イベント」というカタカナ語は、英語のeventを想定しているのでしょう。しかし、eventには、行事という意味もありますが、出来事、事件といった意味もあります。

また、イベントというカタカナ語には、楽しみや軽い集まりという感覚があります。多数の人が集まる会合に、慰霊祭や公的な祝賀式典、起工式などがあります。このような式に、イベントという言葉を使うでしょうか。3月11日の東日本大震災の祈念式に、イベントいう表現は使いたくないです。
本文中に、「イベント等の主催者」という表現があります。ならば、催し物とか行事と書けばよいのです。

中学生はどの程度、この言葉を理解するでしょうか。国民へのお知らせには、義務教育あるいは高校程度の日本語を使うべきです。定住外国人もいます。
国の機関、官僚がこのような言葉を安易に使うことに、悲しくなります。「老人の繰り言」と、笑われるのでしょうか。

と書いていると、NHKニュースが「クラスター」という言葉を使っていました。さて、小学校や中学校の先生は、生徒にどのように説明するのでしょうか。あなたなら、どのように話しますか。