仕事の進め方、参謀か脚本家か

仕事を進める場合のコツについてです。
ある課題を進める場合に、作戦を練ります。私たち役人の仕事は、相手(物でなく人)がある課題ばかりです。そして、「カネにものを言わせて」(商売の場合)とか「数の力で」(政治の場合)という手法はとれません。
相手が我が方の原案に賛成なら、難しくありません。しかし、そうでない場合の方が多いです。上司に持ち込まれる案件は、しばしばうまくいっていないので、上がってくるのです。

説明して、相手を「落とさなければ」なりません。どのように進めるか。「当たってくだけろ」は、日本軍の失敗を出すまでもなく、被害が大きい上に、よい成果は出ません。精神論や根性論では、ダメなのです。
行動する前に、進め方を練らなければなりません。軍隊を例にすると、「作戦」を作ることとそれを考える「参謀」が重要だ、と表現したらわかりやすいでしょうか。この場合は、説得する相手は「敵」です。必ずしも反対する人ばかりではないのですが。攻略すべき相手として、敵と呼びましょう。
「このように説明(攻撃)したら、たぶん相手はこのように反論(反撃)するだろうな」と模擬戦をしてみます。そして作戦を練り上げます。受験勉強だと、試験問題(の作成者)という敵に対して、「傾向と対策」で勉強します。

さて、「当方と敵」という構図はそのままにして、その「戦場」を上から見ると、別の構図が見えてきます。
すなわち、敵と味方を含めて戦場の参加者全員を、上空から見るのです。神様の立場からです。最近だと、ドローンからと言っても良いでしょう。戦争当事者でなく局外者から見ると、双方の手の内がよく見えるのです。囲碁で言う、岡目八目です。

これを、「脚本」と呼びましょう。脚本=「劇の進行の台本」を書く人を考えてください。敵も味方もあわせて全体を見る、「脚本家」の立場です。そうです、参謀を超えて脚本家になると、全体の構図がよく見えて、するべきことがわかります。
上空から両方を見ている神様からすると、それぞれの参謀の考え方は、「下手やなあ」と思うことも多いのでしょうね。

この文章は、「夢と計画と構想」(2018年8月30日)の延長として、書いてあったのです。パソコンの下書き欄で眠っていました。反省。

『正義とは何か』

神島裕子著『正義とは何か 現代政治哲学の6つの視点』(2018年、中公新書)を読みました。
9月に出版されてすぐに読んだのですが、感想がまとまらず、放ってありました。いつか書こうと、机に載せてあったのです。そのような本がたまってしまったので、片付けることにしました。読んだことを忘れないために、書いておきます。本格的に読まれた方は、軽蔑しないでください。

マイケル・サンデルさんの授業や著作が一世を風靡したのは、10年近く前のことでしょうか。読まれた方も多いと思います。私も、なるほどと思いました。
現代の哲学を再生したのは、ジョン・ロールズです。主著である『正義論』(新訳2010年、紀伊國屋書店)は700ページを越える大著なので、読み通した人は少ないでしょう(買って読んでません。反省)。

『正義とは何か』は、読みやすい本です。現在の政治哲学を、一通り学べるようです。
ところが私にとって、やはり「正義って何か、わからないなあ」です。これが、感想文が書けなかった理由です。まあ、そんな簡単に、正義や正義論がわかるものではないのでしょう。
今後も、頭の片隅に起きながら、勉強を続けましょう。ところで、そんな主題が多いのです。「制度」「秩序」「政治」などなど。最近このホームページに「ものの見方」という分類を作って、書きためるようにしています。

ところで、本論から離れて、次のようなことを考えました。
・哲学には、社会の哲学と、個人の哲学がある(Pⅱ)。正しい社会や正義と、個人が生きる際の拠り所、正しい生き方の2つです。
・哲人が考える正しいことと、民主主義が決める正しいことがある。2つをともに「正しいこと」として並べてはいけないのでしょうが。昨今のポピュリズムを見ていると、大衆が支持する「正しいこと」は、識者が考える正しいこととは異なるようです。

・何が善き生き方か。近代自由主義国家では、それは各人の判断に委ねています。社会に迷惑になることについては、法律で禁止、規制しますが。法律で規制、誘導するほかに、道徳やマナーによる誘導もあります。しかし、法律や道徳が守られるのは、それを守るべきだという規範意識が、国民に植え付けられるからです。社会秩序の基礎には、規範意識があります。
日本社会の強靱さは、ここに基礎を持っています。宗教心とともに、そのような習慣や規範意識は、重要な社会インフラです。社会関係資本や文化資本です。
善き社会とは何か。犯罪や事故が少ないといった話でなく、このソフトなインフラは、政治や行政ではあまり取り上げられません。
戦後日本の政治と行政は、善き生き方、善き社会といった話には触らないこととしてきました。善(good)や正(right)の価値判断であり、宗教や家庭での教育です。
豊かさや経済成長が課題だった時代は、この問題は隠れていました。しかし、成熟社会になった日本において、私は再考すべきだと考えています。

科学、市場経済、民主主義。その2

科学、市場経済、民主主義」の続きです。
これまで、人類に繁栄と安心をもたらした、「科学、市場経済、民主主義」の3つが、限界を見せています。

科学にあっては、高度な進化が、人類に危険を持ち込みました。原爆をつくり、人類滅亡の危機を招きました。遺伝子組み換えは、ヒトに適用されると、とんでもない問題を引き起こす可能性があります。不老不死が実現し、人工知能が高度になると、ヒトの生活にいろんな問題を引き起こすでしょう。
市場主義経済は、これまでも何度も恐慌を引き起こしました。また、貧富の差の拡大と固定を生んでいます。国際的格差と国内での格差は、解消されることなく、拡大しています。
民主主義は、指導者たちの理想が、不満を抱えた国民のポピュリズムによって、停滞と不安定に陥っています。

もちろん、これまでも、核兵器の使用や拡散を止める努力が行われてきました。1929年の世界恐慌を経験に、2008年の世界金融危機は比較的小規模で抑えることに成功しました。
しかし、科学者が、経済人が、国民が、自由に行動することで社会全体によい結果が生まれるという「神の手」は限界に来ているようです。
「自然と社会を人間が制御できる」という原点は変えない、変わらないとしても、「科学、市場経済、民主主義」という思想と手法は、修正が必要なのかもしれません。

自由を制限することが、1つの方法でしょう。中国の手法が、その一つです。これはある意味、民主主義より、また西欧型市場主義より、効率がよいようです。しかし、このような自由の制限は、私たちの望むところではありません。
科学と市場経済については、自己運動を続けることを、「人知=政治」によって制限することが考えられます。修正資本主義のように、これまでもそうしてきましたから。
しかし、民主主義は、有権者が参加して決めるということが基本です。その有権者の間に亀裂が入っています。それを、民主主義で修復することができるのか。難しいところです。

理想主義と現実主義と現実的理想主義

理想主義は、「こうあるべきだ」という姿を目指します。反対は現実主義です。「世の中こんなものだ」とあまり無理をしません。

ところが、この言葉を使う場面に分けて考えないと、混乱します。
理想主義にも、その理想に至る道筋に、二つのものがあります。道筋を理想的に考える人と、道筋を現実的に考える人です。仮に、前者を「理想的理想主義」と名付け、後者を「現実的理想主義」と命名しましょう。
前者は、目指す理想はよいのですが、そこにたどり着く道筋が現実的でないのです。すると、時に空想主義に陥ります。
目指す理想状態は、簡単には実現しないから「理想」です。実現するためには、困難な過程が待ち受けています。

現実主義者も多くは、現状に甘んじることなく、改善しようと考えています。すると、「現実的理想主義」とは紙一重です。
違いは、現実的理想主義は、理想とする目標を持っていることでしょう。
私たち行政職員は、現実的理想主義がふさわしいと思います。

慶應大学、地方自治論Ⅱ第12回目

今日11日は、慶應大学で地方自治論Ⅱの第12回目の授業。
地方財政の各項目は一通り話し終えたので、今日はおさらいの意味を込めて、地方財政の見方と、分権(自立と自律)の成果と課題、地方財政の課題をお話ししました。
その際には、内包と外延・深掘りと周囲確認、肝冷斎の絵も話しました。

学生の出席カードには、「ものを見る見方がわかった」との記述が多かったです。
うれしいですね。地方財政の仕組みなら、教科書を読めばわかります。私が慶應大学法学部の学生に教えたいのは、そのような知識ではなく、ものの見方、考え方、このあと社会で活躍する際に必要なものです。彼ら彼女たちは、これから日本社会を背負って立つリーダーなのですから。