空気の支配、再考

「その場の空気に流される」という表現や事態があります。ウィキペディアには「場の空気」として出ています。
山本七平さんの名著に『空気の研究』(現在は、文春文庫)があります。山本さんの著作は、大学生の頃によく読みました。

冷静にかつ客観的に判断すれば止めることができることを、その場の空気に流されて、(多くの場合は突進して)失敗することです。後になって、なぜ止めることができなかったかと問われ、その場にいた人が「仕方なかった」という言い訳に使われます。
しかし、そのような「空気」という物体があるわけではなく、関係者がそのような意識を共有するのです。
誰か「突進すること」を言い出す人がいます。多くの人がそれを忖度して、賛成します。あるいは、黙っています。そして、それを判断すべき責任者が、その意見を黙認します。その結果、誰が決定したのか、誰の責任かが、不明確になります。その場にいた全員が、責任者になりかねません。

そのような事態を、「部下に判断や実行を委ねるのがよい」という「座り型のリーダー論」が、助長します。その反対は、「決定は責任者が行い、その責任も決定者が負う」という「率い型のリーダー論」です。
前者は、全員参加・全員納得型の決定方法です。日本によくある型と言われました。それが、空気論をはじめとする日本人論です。農耕民族と狩猟民族との違いとも言われました。

日本社会のある面を説明する、説得ある説です。しかし、一皮むけば、決めるべき人が決めない、責任者が責任を取らないということです。時には、若い者の暴発を止めることができないのです。日本陸軍の若手将校を止めることができなかった幹部です。
このような文化論がまかり通ると、無責任組織、無責任社会になります。そのような人たちが国政を担ったり組織の幹部になると、国民や従業員はとんでもない被害に遭うことになります。参考「組織の腐敗」「責任者は何と戦うか

若い頃は、「日本社会や組織の空気の支配説」を納得しましたが、自分が小なりとはいえ責任ある立場になってからは、「あれは言い訳だ」と思うようになりました。責任者は、その場の空気に流されず、冷静な判断をすべきです。また、責任者でなくても、参加者の一員なら「それは違うと思います」と発言すべきです。

私が判断の基準にしたのは、次の2つです。
・後世の人に、説明できるか
・閻魔様の前で、説明できるか
責任者が、自ら下した判断やその結果に責任を持つなら、あるいは責任を追及されるなら、「空気の支配」は続かないと思います。