国防長官、国民と理念を守る

マティス国防長官の書簡の続きです。
長官は、書簡の冒頭で「国防長官として、職員とともに、我が民と理念を守る仕事を担ってきた」と書いています。国民を守ることとともに、理念を守ることを任務に挙げています。
“I have been privileged to serve as our country’s 26th Secretary of Defense which has allowed me to serve alongside our men and women of the Department in defense of our citizens and our ideals.”
By The New York Times

国土と国民そして独立を守るのではなく、国民と理念( our citizens and our ideals)を守るのです。ここに、アメリカという国のなり立ちを、読み取ることができます。
独立宣言や憲法に掲げられた理念は「自由と民主主義、人民主権」です。イギリスの植民地から独立する際の「大義名分」だったのです。フランス革命と並んで、アメリカ独立革命でした。(それぞれの国のかたち

国防長官は、書簡の中で次のように述べています。
「中国やロシアが自国の利益を追求するために経済・外交・安全保障に関する他国の決断を否定し、権威主義的な政治モデルと整合的な世界をつくりだしたいと望んでいるのは明らかです。だからこそ、我々は共同防衛に向けて、あらゆる手段を尽くさなければならないのです」

戦前日本は戦争の際に、「国体の護持」を主張しました。この主張は日本にしか通用しませんが、アメリカの理念は普遍的(他国にも成り立つもの)です。
すると、アメリカの理念は「輸出」することが可能であり、時に輸出されます。すなわち、他国にその理念を押しつけます。
そのアメリカの理念を受け入れる用意のある国は問題ありません。日本も戦争に負けて、その理念を受け入れました。他方、その気がない国、それを受け入れる社会的素地のない国では、紛争が起きます。
12月25日加筆

年賀状書き

何と、今年は、今日23日に書き終えました。表書きと、裏に一行添え書きと。
早く着手したことと、休日に頑張ったことが、勝因です。
万年筆なので、手がだるくなります。集中力も続かないので、しょっちゅう休んで、ほかのことに手を出してしまいます。

書きながら、久しく合っていない方々を、思い出します。また、年賀状のやりとりの途絶えた方や、年賀状が届かないかなたに行かれた方も、お世話になったことを思い出します。
私にとって、年賀状書きは、集中力と継続を試されるペン習字の時間であり、あわせて、その方々と一緒に仕事をしたことを思い出す時間です。

数年前から、枚数を大胆に減らしたことが、もう一つの勝因です。すみません、大量に頂いていながら、こちらから出さずに。
かつては、大晦日に、ひどい時は正月に書いていました。近年は、28日には投函するように心がけていました。毎年、年末には、なかなか進まないことをぼやいていたのですが(去年の日記)。
今年は、人生で、最も早く書き終えたと思います。ゆっくりと、原稿書きに取り組めます。

中国 改革開放政策40年

中国が、改革開放政策に転じてから40年です。各紙が、この間の発展ぶりを伝えています。
「中国では、40年前の12月18日から始まった共産党の重要会議で改革開放政策の実施を決定し、計画経済から市場経済への移行を進め、GDP=国内総生産が人民元建てで200倍以上に増加する飛躍的な発展を実現しました」(NHKニュース)。
12月19日の朝日新聞によると、1978年から2017年の間に、国内総生産は225倍、世界経済に占める割合は1.8%から15.2%になりました。一人当たり可処分所得は、152倍に、平均年齢は67.8歳から76.7歳に約9歳伸びました。

鄧小平が、歴史的な大転換を決断しました。1978年10月に日本を訪問し、1週間にわたって日本を視察しました。東海道新幹線に乗り、新日鉄や松下電機の工場を視察したことは有名です。
10月23日の朝日新聞国際面に、「鄧小平氏40年前にみた日本経済」という印象的な記事が載っていました。10月25日に日本記者クラブで記者会見をしました。「日本は歴史上多くのことを中国から学んできた」との記者の問いかけに、鄧氏は次のように答えます。
「いまは逆だ。30年の遅れを取った」。人差し指でこめかみ辺りをトントンとたたき、「ここが足りないんですよ。お国も含めて教育してもらわないといけない」。

確かに、大成功の40年でした。もっとも、後進国の驚異的な経済発展、その第一号は日本です。韓国を初めとする東南アジア各国が続き、そして中国が続きました。下に付けた図をご覧ください。私が著作や講演で使っている、一人当たり国内総生産の伸びの比較です。日本が、アメリカやフランスに追いついた過程と、韓国と中国が20年から40年遅れで日本と同じような過程をたどっていることがよくわかります(この図については、「経済成長の軌跡」)。この項続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

被災者の私有財産への公費投入

月刊『文藝春秋』2019年1月号、五百旗頭真・兵庫県立大学理事長の「二つの大震災 安全神話を越えて」から。詳しくは原文をお読みください。

・・・平成を振り返ってみると、度重なる災害を通して、災害対応・復興のノウハウがこの国と社会に着実に蓄積されていきました。ある意味、震災が平成日本を鍛え上げたと言えるでしょう・・・
・・・(阪神・淡路大震災の際に)兵庫県の貝原知事は震災直後から、地元主導の復興計画を説き、国に向けて「創造的復興」を訴えました。これは「単に震災前の状態に戻すのではなく、21世紀の成熟社会にふさわしい復興を成し遂げる」という趣旨のものでした。
しかし、国の反応は厳しいものでした。大きな障壁となったのは、「被災地の公共施設を旧に復するのは国の責任だが、よりよいものをつくるのであれば地元の資金で」という、当時「後藤田ドクトリン」とも呼ばれた行政の論理です。要するに「焼け太りは許されない」との上から目線の冷たい線引きでした。加えて、被災者に対して、私有財産は自分で立て直すのが筋だという行政の論理が貫かれてました。

実は、この考えの源流は明治時代にまで遡ります。明治13年の「太政官布告」は、災害の際に破壊された個人財産については公費の対象にならないと定めたもので、この点で、大蔵省を中心とする行政の論理は明治以来のものです。他方、内務省などは護民官的な救援強化を推進してきました。
政府はこの「後藤田ドクトリン」を盾にして「法体系系の整合性」を説き、公共部門の復旧はさせても、被災者個人の生活再建に国費を投じることは認めようとしなかったのです・・・

人生100年時代、困った

人生100年時代が来ると、言われています。
現在、日本人女性の平均寿命は87歳、男性は81歳です。内閣府の予想では、2065年には、女性91歳、男性85歳に伸びます。現在、死亡する年齢が最も多いのは、女性93歳、男性87歳です(12月13日の日経新聞「ポスト平成の未来学」)。

先日、ある先輩が、次のようなことを話していました。「年賀状の季節だが、いただく喪中はがきを見て驚く。亡くなった方は、ほとんどが90歳代だ」と。私も、感じていました。
ある地方紙は、死亡記事(葬儀などのお知らせ)のうち、100歳以上の方は写真付きで載せていました。最初は週に数回にまとめて掲載していたのですが、最近は毎日になりました。それを取りやめるそうです。件数が多くなって、面積を取るからです。もう、珍しいことではないのです。

平均寿命は80歳代ですが、そこには、若くて亡くなった人も含まれています。いま60歳まで生きている人たちは、90歳や100歳まで生きることが多くなるのでしょう。
これはうれしいことですが、その一人となりそうな、私としては困ったことです。
私を含め、いま60歳前後の人たちは、「人生60年」と思って生きてきました。日本人の平均寿命もそうでしたし、じいちゃんやばあちゃんもそうでした。
若いときから、退職後は困るなあと思っていました。でも、「70歳で死ぬなら、10年ほどだ」と考えていたのです。
ところが、「これからは人生100年時代だ」と言われても、困りますよね。

これから30年、どのようにして充実した時間を過ごすか。これからは、余生ではなく、「第二の人生」+「余生」にしないと、30年は長いです。