時事ドットコムの連載「明るい仕事講座」は、第4回「メンターを持とう」が掲載されました。
時事ドットコムの表紙の右「人気アーカイブ」にある「入り口の漫画」が、右下から右上の方に出世しました。
月別アーカイブ: 2018年9月
肝冷斎の不惜身命
肝冷斎が、疲れた体にむち打って、野球観戦を続けています。この連休は、仙台まで遠征したようです。
一月に20試合以上見るためには、緻密な予定と、きつい地方遠征が必要です。もちろん、時間とお金も。好きとは言え・・・。
リーマン・ショックから10年3
「リーマン・ショックから10年2」の続きです。当時、麻生総理が国際的にリーダーシップを発揮したことに、もう一つ、中国への働きかけがあります。
ちょうどその時期に、北京で国際会議があり、胡錦濤・国家主席や温家宝・首相と会談しました。会食の際、麻生総理と胡主席が熱心に話しておられました。また、温家宝首相とも、話し込まれました。内容は、この経済危機にどのように対応するかでした。
当時、日本は世界第2位、中国は第3位の経済大国でした。アメリカやヨーロッパが機敏な対応ができないので、日本と中国が財政出動して、景気後退を食い止めようということです。
中国はその後、大規模な景気刺激策をとるとともに、日本と同様に1000億ドルを国際通貨基金(IMF)に融資することを決めました。
100年に一度と言われる国際金融・経済危機。それに対し、各国が協力して封じ込める対策を打つ。
1929年の大恐慌の際は、各国が自国の利益優先で囲い込みに走りました。それが、経済危機をさらに深くしました。今回は、その経験を踏まえて、各国が協調し、危機を押さえ込んだのです。
その現場に立ち会い、政治の役割を認識する、貴重な経験でした。
公文書館、「躍動する明治展」
国立公文書館(千代田区北の丸)で、明治150年記念秋の特別展「躍動する明治ー近代日本の幕開け」が始まりました。
「教科書に出てくる文書を集めてみる」ことを目標に、国立博物館、国立近代美術館、福井県立文書館、明治新聞ライブラリーなどの協力を得ていろんな文書を展示したそうです。ポスターも、斬新な意匠です。
入場無料、11月4日までです。
リーマン・ショックから10年2
「リーマン・ショックから10年」の続きです。
2008年9月15日に、リーマン・ブラザーズが経営破綻しました。9月24日に麻生内閣が発足し、まずはその対応が仕事になりました。
財務省出身の浅川総理秘書官(現・財務省財務官)が、この分野の専門家でした。これは幸運でした。彼が中心になって、財務省・金融庁・日銀との連絡を取り、対策を作りました。私は、国際金融については素人です。浅川秘書官の解説を受けて、仕組み、問題点、対応策を勉強しました。
日本の金融機関はバブルの記憶が新しく、サブプライムローンはたくさん抱えていませんでした。当時、日本は世界第2位の経済大国です。日本がそして麻生総理が、国際的にリーダーシップをとりました。
各紙は、あまり詳しくはこの功績を書いていませんが。たとえば9月19日の読売新聞「金融危機10年」第7回で、触れています。
・・・「ワン、ゼロ、ゼロ、ビリオン」
リーマン・ブラザーズの破綻から2か月後の2008年11月、米ワシントンで初めて開かれたG20首脳会議。日本の首相、麻生太郎が、日本の外貨準備から、1000億ドル(当時のレートで9.6兆円)を国際通貨基金(IMF)に融資する考えを表明すると、新興国の首脳から拍手が起こった。財政・金融政策などあらゆる政策を総動員することで各国は一致した・・・
浅川・元秘書官は、9月18日の日経新聞で、2008年11月、20カ国・地域(G20)首脳会議をワシントンで初めて開いたことに関して、次のように回想しています。
「呼びかけたのはブッシュ米大統領(子)だ。08年10月、麻生首相が静岡県に出張していた際、ホワイトハウスから同行秘書官の携帯電話に電話が入った。電池切れを心配しながら、日米首脳会談が始まった。財務相らが集まるG20の枠組みを使い、首脳会議を開きたいという話だった。緊急を要しており、それでいきましょうと合意した」
「麻生首相は初回会議の場で危機対応の提言をまとめた資料を配った。資料を用意したのは参加した首脳のなかで麻生首相だけ。必要な短期、中期、長期の対策を提言した。日本は1990年代に金融危機を経験していたので、知見があった」
「特に重要だったのは国際通貨基金(IMF)への融資の提案だ。危機が飛び火しそうになった国に予防的に資金を融資できるようにする狙い。麻生首相が日本から1000億ドルを融資すると表明すると、各国が賛同しIMFの資金基盤は倍になった。G20会議が終わったあとにインドのシン首相とブラウン英首相が麻生首相に近寄って握手を求めてきた」
この項続く。